新春随筆

両親の死から得た教訓
医療従事者としての立場と患者家族としての立場から

鹿児島県臨床工学技士会会長 山口 親光

 父の死から30年以上経過した今年、私は、母の臨終に立ち会うことができました。2人の身内の死を通して医療従事者の立場と患者家族の立場の両面からの経験と感想から、今後の自分に残されたわずかな医療スタッフとしての期間に生かしていけるよう努力すると同時に医療に携わっておられる多くの方々に患者家族の立場を理解して頂き、対応して頂けることを願いつつ投稿することに致しました。
 私が父の死を経験したのは、30年以上前で、まだ25歳という若さであり、自分もまだ医療の仕事に従事していない時期でした。自分の職場へ父が急変したとの連絡があり、頭の中が真っ白な状態で車を運転して無事病院へ着きました。今考えても当時どのようにして自宅への道を通って帰ったか記憶が無いほどに動転していたため、非常に危険な状態であったと考えています。その理由は、その当日の朝も木市へ出かけて行くくらい平素と何も変わったことの無いような状態であったからです。病院へ着いた時、父は全く意識も無く、そのまま3時間後に死亡しました。脳出血でした。
 しかし、父の死は、父にとっては願望を達成した死であったと思っています。父は、日頃から『長寝はしない。自分は死ぬときにはぽっくりいく。』等、常日頃から言っておりましたし、ある日突然、視力に異常があり、眼科で“緑内障”の疑いをもたれた事が有るくらい当時から高血圧を指摘されておりましたが、充分な治療をしないくらい頑固な所がありました。そのため、自業自得と言っても過言でなかった訳で自ら招いたものと言わざるを得ない状況にあったからです。
 救急車で搬送された時、血圧は測定出来ないまでに上昇していたらしく非常に危険な状態でありました。今はもう廃院となって存在していませんが、自宅の近医であった某病院の対応に非常に不満を感じたことを今でも忘れていません。非常に危険な状態であったにも関わらず、使用していた酸素ボンベが切れ、交換のため持ってきた予備の酸素ボンベも又、空でした。当然、診療所であり、中央配管の酸素供給設備も無く酸素の供給ができなくなりました。そのため、本来なら病院が対応するべきである酸素ボンベの手配を我々家族にさせたばかりでなく、全く知識のなかった私と叔父に心臓マッサージをするよう要求されました。今考えると、酸素がなくなり病院としての対応ができなくなった事でパニック状態となり、統制された行動ができなくなってしまった結果ではないかと予想されます。それが原因だったかどうかは当時の状況からしても判断することは困難なことではありますが、多分、大きな脳出血でどんなに適切な治療が受けられたとしても多分救命することは困難であったと思われます。
 しかし、やはり家族にとっては居た堪れない状況でありました。
 後に、私も医療従事者となった時、この事が私の医療従事者としての心構えに大きな影響を与えていることは事実であり、例え、対応している患者さんが不幸にして亡くなられたとしても遺族にとって十分に対応してもらえたと感じられるような対応を目標に医療に従事しようと心掛けるきっかけとなっています。
 そして、今年、母の死を経験しました。私の母は10数年前からパーキンソン病を患い、以後、入退院をしながらも時折は、家族と共に公園に行ったり食事に出かけたり結構楽しそうに生活しておりました。
 そのような中で自分達、夫婦が共働きで日中不在にしていたこともあり、晩年の10年間はほとんど入院したままで病院や介護施設を転々として自宅に帰ってくる事が少ないくらいの状態でありました。
 しかし、姉や妹をはじめ、たくさんの孫、果てはひ孫まで心の支えとなって90歳という年齢と歩行や自分のことが自分自身で出来ないという不自由さを除けば、ほとんど寝たきりの生活の割には元気で食欲も旺盛でした。そして、死亡する3週間くらい前に肺炎(多分嚥下性肺炎だろうと思いますが)を起こしてから急激に悪化して死亡する2週間位前から発熱が収まらず、40度近い発熱が継続しておりました。その間も家族全員で交代で介助や看病に通い、10数年間の介護の総決算のような状況でありました。そして、死亡前日の夜は自分自身が泊り、母の看病のため付き添っておりました。
 前もってお世話になっております高田病院の院長(ご配慮により主治医となって頂いておりました)とは90歳という高齢でもあり、出来るだけ自然にとのことで話がしてありました。
 死亡当日の5時ごろ突然呼吸停止を起こし、モニター上ではサイナスであったため心拍はあるのに呼吸を停止したままではいけないと思い、看護師さんの協力を得て、蘇生を致しましたところ5分くらいで復帰いたしました。その後1時間30分後くらいから呼吸が非常に浅くなるとともに心拍がゆっくりと低下し始め20台まで低下したところでフラットとなりました。本当に眠るような最期となりました。その時には前回の呼吸停止で家族もみんな(孫やひ孫まで)集まっており、皆の見ている前での最期を遂げる事ができました。このときは最初に院長と約束してあったとおり、心臓マッサージもせず、そのままのごく自然な形で、よく言う塩水が引くような最期となりました。本人にとっても我々、家族にとっても本当に最高の死に際だったと思います。あまり面倒を見ることができなかった私にも最後の一晩を過ごす時間をつくってくれましたし、全員で見送ることができる状態をつくってくれた母に感謝しています。90歳という世間的に言っても何も不足のない年齢ではありましたが、やはり身内にとってはさびしい思いも感じています。これで良かったのだと心に言い聞かせていますが、最期は何もしないという自分の判断に間違いはなかったかと心残りの部分も感じる現在です。
 このように私の場合は、世間的に見ても何も問題が無いと思われるような状況での判断ではありましたが、医療の現場においてはもっと若く、判断に難渋するような症例も多々存在しています。
 しかし、このような状況の中であっても、医療従事者にとっては人生最後の処置をどのようにするかは家族の承認を得ておくことは当然必要であり、当然の業務です。
 しかし、このような状況での判断を委ねられたキーパーソンにとっては非常に大きな心の負担である事は当然です。そのため、これらのキーパーソンに対する適切な対応や配慮が必要です。
 私のような何も問題の無いような状況であっても多少なり、心的な負担があることから、特殊な状況では更に大きな負担があることを理解して十分な対応や配慮が必要であり、このことで少しでもキーパーソンに対する心の負担が軽減されることを願っています。
 我々、臨床工学技士がよく遭遇する場面として、透析治療の開始時や人工呼吸器を接続する時などに実施するかの対応を家族に判断してもらうことの重要性が、後の中止時の判断や人工呼吸器を外すタイミングなど非常に微妙な問題をはらむ結果を招くことも非常に多く、本人にとっても家族にとっても、はたまた医療者側にとっても非常に困難な状況を招きかねない可能性を秘めているからです。
 このような家族への判断を委ねなければならない状況は常に付き物ですが、このような時期に家族やキーパーソンに対する十分な配慮により、たとえ、不幸な結果を迎える事になった時にも家族の印象は違ったものとして見えてくるのではないかと考えています。
 私自身も、私に残された医療人としての業務もこの事を参考にしながら患者さんに接する心構えとして、これからの業務に生かしていければと思っております。
 最後に、母の死に際してご配慮頂きました、多くの皆様方にこの場をお借りし、心より感謝申し上げます。


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