第11章 閉ざされたドアー
一年間の海外生活の成功とクリーヴランドでの帰国歓迎とで満足して、将来への希望に燃えて1901年=明治34年9月中旬ボルチモアに戻った。しかし、彼の高ぶった心は間もなく打ちのめされた。と言うのは病院に着いてみると主任クラスがすべてまだ休暇をとっていて留守で、彼にはなんらの任務――約束だけで――がなかったからである。彼はみんなが帰ってくるのを待つしかなかった。友人たちと会ったり話したりすることは沢山あったが、自分の地位がはっきりしないためにじれったさも極点になってきた。次第にシニア・スタッフが帰って来始めた。病院総監督のヘンリー・ハードは日ごろの寡黙をなげうって暖かい歓迎の辞を述べた。ウエルチとオスラーは心底再会を喜び、オスラーはこの夏の間に集めた稀覯本を見せるために彼を夕食に招いた。
しかし、彼の将来がかかっているホルステッドは帰りが一番遅く、しかもクッシングが会うのに数日待たなければならなかった。教授は愛想はよかったが、いつものように控えめで、幾分あいまいで、彼の将来にぴったりする計画もなかった。しびれを切らしてケイト・クロウエルに不平をかこっている:『何もしないで時間を潰していることは面白いことではありません。僕のことを仲間のように扱ってくれていますが、実際にはそうではありません。ここの外科サイドはうまく行っていないようです。僕は遂に2日前に教授に会って談話しました。そして彼は[クッシングは整形外科をやるように]と提案しました。僕はそれは望まないと言ったばかりでなく、実際少し怒りました。その夜、教授にもはや教授も病院も捨てて――クリーヴランドに帰ることを告げる手紙を書こうとしました。そのとき貴女のことを考えたのです……今夜これからハードのところへ夕食に行きます。どこまでも朗らかな振りをしなければならないのはいやなことです。』
彼は次のような事実にもかかわらず、神経系の外科に集中しようと決心していたのである。ボルチモアでの初めの日々にいくつかの病院の統計を調べて1889年=明治22年から1899年=明治32年の10年間の間に脳腫瘍と診断されたのはほぼ36,000人の入院患者のうちわずか32回に過ぎないことを見出した。32例のうち11例が外科に回されて、そのうち2例に手術が行われて、2例とも死亡している。これらの数字は閉ざされたドアーへの挑戦を提示していた。彼はそれを開く一人になることを望んだのだ。
どうみてもホルステッド博士に公平なことに、クッシングの決定を励ますのに躊躇せざるを得なかったことは、彼が入ろうとしている分野はあまり将来性がないと見たからである。当時の入院患者のうちたったの2例が多分神経外科を必要としているに過ぎないことを指摘した。しかし、クッシングはこの思いやりをありがたがらなかった。ホルステッドの熱意の足りなさが彼をうんざりさせた。彼は深い誇りをもって述べた:『僕は自分の望んだことがすべてできるとわかっていた。ただ頼むのがいやだった。やってくれと言ってもらいたかった。』
とうとう、さいころは振られホプキンスにとどまることになったと父親に書くことができた。彼とホルステッドとは取り決めた。外科クリニックの神経外科部門を与えること、神経科医局のH・M・トーマス博士のもとで働くこと、入院患者をみるために病棟にはいること、第4学年の学生に週一回外科の指導すること、そして週一回手術の機会を与えることなどであった。これに加えて外科解剖学を教える課程も喜んで引き受けた。彼が専門化すれば、それを教えない限り一般外科から遠ざかってしまうことを恐れたからであった。手術解剖学のあと春の学期には手術術式のコースを教えることになっていたが、その際、屍体と同じく動物を用いる考えを思いついた。
病院での仕事が決まると、西フランクリン街3番地のヘンリー・バートン・ジェイコブとトーマス・B・フッチャーの住む独身寮に一緒に暮らす招きを受け入れた。隣の1番地にはオスラー一家が住んでいた。三人で家事を分けて受け持ち、家政夫を一人置いて快適な生活の維持に努めた。三人それぞれの流儀で家事を切り回した:ジェイコブは食料品店に電話で注文して取り寄せたので、彼の当番の月は請求書が嵩んだ。「フッチ」はウイリアムをマーケットに買出しにやったので、家事が間に合わず玄関の真鍮の名札を磨く暇がなかった。クッシングはバランスを取ろうとして、自分自身でマーケットに買出しに行った。そして12月3日にケイトに書いている:『今日、家事を始めました。マーケットに行き、ロースト・ビーフを15セントで、またチキンやスープ用に[脛骨]を一本、それに野菜を少々買いました。なかなかのスポーツでした。これなら電話を使わなくて続けられると思います。非常に家庭的な仕事で貴女と一緒に生活を始めるときのよい練習です。』
その後、クッシングが食物のことを評した手紙を読んで父親のカーク博士は調べる必要があった。クッシングは言っている:『今月は買出しの当番です。チェッツリングス、コーンドした豚の尻尾、それにスクラップルが何かご存知ですか?』これに父親は答えている。『センチュリー辞典で調べたところ、チェッツリングス[鵞鳥のはらわた]、塩漬けにした豚の尻尾までは想像することができるが[スクラップル]は調べもつかないし想像もつかない。それは西フランクリン街3番地の皆さんの好物なんですか?』
(訳注:scrapple: アメリカの豚料理の一種)
西フランクリン街3番地の住人たちは、やがて彼らの新しい生活がうまく行っているのはオスラー家の近くに住んでいるお陰であることに気づいた。オスラー夫人は1番地の表戸の錠前の鍵を三人全部に与えた。こうして自由にオスラー家に出入りしオスラーのすばらしい図書室にアクセスでき、その家庭でいつも何かしらたとえば著名人の来客あるいはオスラー夫妻が好んで呼び集めたたくさんの若い人を中心とした集まりに気軽に顔を出すことができた。
オスラーの側に居る者は誰でも、彼の熱情、精力的な生き方、知的好奇心、そして人生の享受などに感化を受けずには居れなかった。グレース・レヴィア・オスラーはこの活気に満ちた友好的な雰囲気を醸し出すのに大きな役割を果たしていた。彼女はオスラー博士と同様に多くの学生や若い同僚に関心を抱き、お互いの友達のことなど生き生きとした筆致の手紙で、彼らの経歴をなぞり、最近の出来事を率直にコメントしたり、彼らがやっていることを楽しく報じたりした。オスラーの気前のよいホスピタリティの陰にはいつも彼女の供給する実際的な要件があった――彼がかつて言った――彼女は一家を切り盛りするには勿体無い、ホテルを経営するべきだと。
1番地に客が溢れたときには、隣へ回された:1901-02年=明治34・35年の大半、オスラー博士の愛する甥W・W・フランシスは医学校に通っていたがほとんどクッシング達、[表戸の鍵主たち]のところに泊まっていた。そして毎晩11:15にクッシングとチッドリーウインクスのゲームを一勝負やって一日を終わるのであった。
(訳注:tiddlywinks小円盤のおはじきを飛ばして円筒の中に入れるゲーム)
秋になって、クッシングは12月にフイラデルフイアで行われるミュッター記念講演会での講演の準備にかかった。ジェフアーソン医科大学の外科学教授W・W・キーン博士が招聘の肝煎りをしてくれた。腸穿孔のある見解ではクッシングと意見が不一致であったけれども(1898年=明治31年の論文で発表した)キーンの注目を引いて、彼らの脳外科への共通の関心が長い友情の礎となったのである。これはクッシングのホプキンス医学協会の会合以外での初めての公の見参であったので、彼は論文を書いては書き直し数回に及んだ。彼はベルンで行った実験的業績、頭蓋内圧と血圧との関係を要約することに決めた。刊行された論文には彼の非凡な精巧な描画が一部カラーで付してある。彼の思いつきの窓を通じて観た健常の血管と圧亢進時の血管とが示されている。
12月3日夕方到着したときには勉強をしすぎて疲労困憊と不安の状態にあった。厳しい試練から逃れるためなら鉄道事故でも、火災でも腸チフスでもいとわないと父親に白状している。事実大変な悲劇が起こった――彼が着替えをしているときに礼服のズボンを家に置いてきたことに気づいたのだ――しかし、いまさら取り消すわけには行かない。カーク博士は足に墨でも塗ったのか、人のズボンを借りたのかと問い合わせているが、これについては何も言わない――ただ、ハリーの家族に病人が出て父親がフイラデルフイアにこれなかったことが残念であったことと講演はうまく行ったと思うとだけ述べている。
いまやクッシングは結婚をすることを急ぎ始めた。彼のカサリン・クロウエルへの愛情は1年の海外旅行中にいっそう深まり、一緒に生活したいと言う思いは毎日募ってきた。結婚への責任の一念で、彼はお金の収入になることなら何でも引き受けた。彼はミュッター記念講演で200ドルもらった。徐々に原稿料や時たまあるプライベートな患者からの収入で集めれば何とか経済的にやって行ける自信がついてきた。あるときケイトに告げた:『しばらく貴女に手紙を書きませんでした。ペンとメスの両方を使っての謝金で収入を得ようと努めていたのです。原稿を書いたり――患者を診たり。』
クリスマスには帰省することにした。休暇が終わって、ボルチモアに戻ってすぐに出した手紙に別れが辛かったことが表れている:『荷造りが済むと父が待っていました。二人で駅に行きましたが、私は一人でホームを登ったり降りたりしました。できるだけ朗らかに振舞いましたが、[ケイトをよろしく]と言ったのしか覚えていません。それから二人ともクッシング家の赤鼻をかんでからとりとめのない話をしました――ボルチモアの牡蠣の話などしたと思います。』
そのあとほとんど毎日のようにクリーヴランドへ手紙を出した――やさしい、気まぐれなこれらの手紙が彼の「寂しさ」を表している。彼はいまや彼の考えや日々の出来事をケイトに打ち明けるようになった。『昨日、僕は教授に対して無作法をしました。ごめんなさい。どうすることもできなかったのです。何時の日か、教授なんか嫌いだと言ってさっさとまとめて帰ります……』。そして、再び『主任のところに行って、着飾った多数の中枢神経系と夕食をともにしました。今日は講義をして、患者を数人診ました。これからゲラ刷りの校正をするところです。先週の診察料は160ドルと50ドルです――ばらばらですが励みにはなります。』
2月に入ると二人は彼らの婚約と6月10日に結婚式を挙げることを発表した。そして6月が近づくとクッシングは毎日指折り数えて待っていた。あるときケイトに書いた:『僕は金銭的に貧しいのではないかと心配しています。』そして『僕たちの結婚式でみんなが[騒ぎすぎ]ないようにしてください。
ただ楽しくやれればそれでいいのです。[アルバイト]の気味があるなら止めてください。[終わってやれやれ]と言う感じをもたれないようにしたいです。みんなが毎週結婚式に出てもいいと思うようにしたいものです。』
ホルステッドとの間の理解不足によって起こった不満はクッシングにほかのポストの可能性を探させ始めた。彼は望みを高く持ち決して目標をそらしはしなかった。彼がホプキンスよりもほかに行きたいところはハーヴァード医学校だけであった。1902年=明治35年2月22日W・T・カウンシルマン(彼に問い合わせの手紙を出していた)からエリオット総長宛に手紙を書いたらどうかと言う励まされる手紙を受け取った。
クッシングがエリオットに何と書いたかはわからないが、次のような親切な返事が来ている。
『貴君はわが医学校ならびにマサチュウセッツ総合病院に優秀な成績を残して去られました。ジョンス・ホプキンス病院の外科スタッフの経験で疑いもなく腕を磨かれたと思います。貴君の言うとおり3年以内に臨床教育スタッフの再編成が行われるでしょう。貴君がもしバレル博士、モーリス・リチャードソン博士ならびにJ・コリンズ・ウオーレン博士をよくご存知なら三人のうちの誰かにあるいは三人全部に自分の希望を述べて貴君の名前が再編成のときに思い浮かぶようにされた方がよいと思います。』
彼はエリオットの教唆に従った。と言うのは3月15日付けでハーヴァート・L・バーレルから手紙が来ている。彼は言う:『医学校の計画のことを考えるたびに貴兄の名はいつも思い出しています。貴兄が果たした業績には深く印象付けられているし、外科学で最高かつ最善であろうとする貴兄の勇敢な努力には敬意を表します。』
ことは止まって、それ以上の進行はなかった。彼は待つしかなかった。しかし6月にはハーヴァードの話がまったく予期しない方面から入ってきた。メリーランド大学の外科教授の椅子が初めホプキンスの優秀な一般外科医 J・C・ブラッドグッドに持ち込まれブラッドグッドが辞退したあとクッシングに持ち込まれてきた。彼はまじめに受け止めたようで、ちょうどヨーロッパへ出かけようとしているホルステッドに手紙で相談した。ホルステッドは資金の乏しい病院で遭遇する障害や苦労ひいては動物実験の機会が乏しいことを考慮するように答えた。『君の現在の地位は非常に理想的だし自分にはうらやましい。君は思い通りに時間を使えるし、少なくともアメリカで君ほど機会に恵まれている者はいないだろう。』それでもクッシングが変わることを希望するなら、最高の協力と助力を惜しまないだろう。そして、言う、『君の事はいつも心にある』さらに『君の選択がよいことを望み多幸を祈る。君のようにすばらしい将来性があり、それにあんな立派な奥さんがいて幸せでない法があろうか』と手紙を結んでいる。
クッシングの決心に影響を与えたのはこの手紙であったかも知れない。しかし、2日後にブラッドグッドから来た手紙のほうがより強く影響したようである。『間接的に聞いた機密の話だが、君は知って置いたほうがいいと思う。君の名前はボストンで考慮されている――ハーヴァードは君の事を大いに考えている――その外科教育の再編成において。もし君がこのことを知らないなら――知るべきだし、またこの可能性を考慮すべきだと思う。』
決定の因子が何であれ、クッシングは待つことを選んだ。そしてメリーランドの申し出を断り、ホプキンスでの仕事を続けることにした。彼の研究が注目され始めたことは3月と6月の間に6件もの講演を依頼されたことでも判る――ジョンス・ホプキンス医学協会でガッセル神経節の9例について1回、クリーヴランドの細菌学会に出席の帰途、ニューヨーク州バッファローにて1回、メリーランド大学内科・外科学部で1回、ジョンス・ホプキンス大学で2夕。そして最後のもっとも重要なのは6月4−6日開かれるミルウオーキー州医学会の外科学年次集会での講演であった。彼は切断手術のショックを避けるために太い神経幹にコカインを注射し、術中の血圧の変化を観察したことを話した。
諸学会が終わるや否や彼はクリーヴランドに急ぎ帰り1902年=明治35年6月10日カサリン・クロエルと結婚した。オスラー夫人がパリ在住のヘンリー・バロン・ジェイコブへ出した手紙によると:『ドクター・クッシングの結婚式は魅力的に終わったと聞きました。田舎式の静かなもので、バーカー博士も出席されて、大変理想的なものだったというお手紙でした。』7月1日には新婚夫婦は西フランクリン街3番地に落ち着いた。4月にはジェイコブ博士は前のボルチモア・オハイオ鉄道の社長ロアート・ガーレットの未亡人と結婚していたし、トーマス・フッチャーはクッシングたちがもっと広い家に引っ越すまでは一緒に暮らしていた。
夏にはホプキンスでの友人でいまやシカゴにいる前述のリューリス・F・バーカーからコッヘルとの研究を記載した論文へのお祝いの手紙が来た。『脳圧その他、実にすばらしい。心からおめでとう。君は真の外科教授がなすべき種類の研究を世に示した。来るべき臨床外科はまったく新しく生まれなければならない。新しいワインは古い瓶に入れることはできない。』
11月には彼自身は不成功に終わった2例を持つだけであったがフィラデルフィアでの脳腫瘍に関する論文の討論に参加するよう招かれ嬉しく思った。この機会に著名な神経学者で内科医のS・ウイア・ミッチェルに初めて会った。彼は自分の図書室に招いてクッシングの文学や詩の方面の熱情に火をつけた。
時たまあるこの種の招待、病院の仕事、教育、原稿執筆、それに結婚したことによる社交の増加などによって秋と冬はあっという間に過ぎてしまった。4月にケイト・クッシングがカーク博士に書いている:『講義がないので、今、休暇なのですが町の離れた場所の異なった病院に数人の患者がいます。それにいくらかの校正、原稿の書きかけ……[クリーヴランドの学会に出かけていなさる]オスラー先生にお聞きになればハーヴェーの様子がよくお分かりと存じます――彼はとても元気です――でも二つほどお尋ねしたいと思っていたことがあります――彼が風邪を引いたときにはどんな養生をするように躾けておられますか?それにしても彼は幾つになりますか?彼のバースデー・ケーキに私が33本の蝋燭を立てたのに彼はそれでは足りないと言うのです。』
春になってクッシングは父親に7月の末には5番目の孫が生まれるだろうと告げた。そして6月の末にまだ生まれないうちに会いに来てくれるようにせがんだ:『月半ばになる前に1週間くらい何とかして是非おいでください。20日以降は二人きりでいたいのです。またクロウエル夫人には[事]が終わってから来ていただいた方がよいとそれとなくほのめかしていただきたいのです。フッチャーは休暇で留守しますが看護婦と新産児と姑が同じ家にいては、特に暑いときに、召使は新米だし、ほかの意味でも大変です。』
(訳注:ハリーには3人の子供があり、ネッドには一人いた)
父親はボルチモアまで旅行をする元気がなかった。またクロウエル夫人の来訪を引き止めることにも成功しなかったようである。しかし、これは赤ん坊が8月の4日まで生まれなかった事情によるものと思われる。体重8ポンドの元気な男の子で、洗礼を受けてウイリアム・ハーヴェーと名づけられた。息子の誕生と言うことによる幸せもクリーヴランドからの母親が病気になったとの知らせで幾分翳をさした。しかし、重篤な障害を示す症状も見られなかったので、家族は、彼女の生涯で初めての病気もまもなく治るだろうと期待していた。カーク博士の8月3日の手紙はいくらかよくなったと言う:『君のお母さんはやせて衰弱しているが予期される以上のものではない。精神的にも肉体的にもいつものように力限り急いでいる。ヘンリー・カーク・クッシングのように仕事から引退すれば一番いいのだが、お母さんは最後まで働き続けるのだろう。おそらく、それが一番いいのだろう。』
8月10日付で母親から自筆の子供生誕の祝いの手紙が来た。クッシングは母親の筆跡が幾分震えてはいたが手紙を書けるのを知って安心した。しかし彼の心は彼女の希望『自分自身が月に向かって泣くという子供の役割を演じている(適わないことを願っている)事に気づいています――お前にとても会いたいです……』を読んで胸を締め付けられた。
これが母親から受け取った最後の手紙になった。8月の末にケイトがウイリアム・ハーヴェーを連れて帰省したので、彼女の赤ん坊に会いたいという望みは叶った。クッシングも9月のはじめには赤ん坊を迎えに帰省した。彼らがボルチモアに帰ってから急速に容態が悪化して10月21日に逝去した。クッシングは直ちにクリーヴランドに帰った。そこからケイトに書いている:『ドアの外側に秋の木の葉を大きな環にしてあるだけだ。黒は一切ない――いかにも母さんのようだ。おー、それにしても静かで寒い。母さんの顔を見るまでは信じられなかった。父さん以外には誰もいなかった。取り乱していたので、誰もいなくてよかったと思っている。あなたと父さんと母さん以外、僕が激情家であることを知らないのだ。父さんはいつものように静かで落ち着いている。しかし、ほとんど眠っていないように見え、やせて疲れているようだ……』
次の日のもう1通の手紙をケイトに送っている:
『すべていつもとほとんど変わりない。父さんは静かで弔問客に大変愛想よく、よく話している……母さんについての懐かしいことやちょっとした出来事のあれやこれやを話している。赤い乾いた眼で母さんの古い銀板写真やほかの写真を見つめている。僕はお父さんを寝付かせようと思って11時まで起きていた。アリスの話によると最初の夜は一晩中歩き詰めでしゃべり通しだったそうだ。父さんは母さんの手の話をした――小さな手にしては幅が広く、形は自分の手に似ているし、子供たちの幾人かはそっくりだ――この手は50年の間一瞬たりと怠けることなくじっとしていることなく動いていた;しばしばほかの人を助けるために余分な仕事をしたり――大きなカーペットを作るのに不必要な重労働をしたり――いつも何かをしていた手……
母さんが死ぬ前に僕たちの男の子に会い抱いてもらってよかったと思っている。僕には欠けている完全な無私その他の優れた性質を伝えてもらえればいいと願っている。』
10月24日美しい秋の午後、ベッチー・マリア・クッシングはレイク・ビユウの丘の上に葬られ、悲しみに沈むハーヴェー・クッシングはボルチモアに帰った。ウイルの妻、キャロリン・クッシングが後日ケイトに書いた:『みんなハーヴェーにもう少しいてもらいたかったのです。ネッドが言うように[父親に近づいて肩に手をかけられるのは兄弟のうちハーヴェーだけ]なのです。ほかの兄弟はみな父親によく仕えます。そして喜んでもらおうと努めます。だがハーヴェーは自分の流儀しかしないのです……親愛なるケイトよ、私はベッシー叔母さんが貴女と非常に親しくて幸せであり、ハーヴェーが貴女を心の底から愛していることを知っていて、本当によかったと思います……力強く、知性と判断、忍耐と勇気、それに大きな心に愛情を蓄え――まれに見る徳を備えた方でした!』
クッシングはできるだけ頻繁に父親に手紙を書いた。そしてカーク博士も陽気に返事を書いたが流石に寂しさは覆うべくもなかった。
『君からの手紙を得て、君やケイトや君の子供の近況を知って嬉しかった。実際、空白を打ち破り家を満たすものは何でも嬉しい。こちらも天候も穏やかで快適だ。母さんの花壇から毎日いくらかの花を摘んでいる。金蓮花(のうぜんはれん)、ダリア、時にはバラ、それに菊が変化を添える。』しかしクッシングがもっとも心を動かしたのは、母親が注文した300の球根をネッドの指揮の下に父親自身が植えたことであった。『うまく行くかどうかはほかの多くのことのようにわからない。お墓の前の草地の中にも植えたよ。』ベッチー・マリア・クッシングはクローカスの毛氈を敷き詰めた丘の上に憩い、彼女を愛した者たちは思い出でギャップを埋めようと試みた。
(つづく)
|