第10章 若き田夫子の海外旅行
「汽船の椅子に腰掛けていることだけが義務となって責任が失せた人類の凡庸さは憂鬱である」この人間嫌い的観察を以てハーヴェー・クッシングはヨーロッパ旅行を始めた。馴れた環境を去ると毎度現れるうつ状態が、今回も現れるのに暇はかからなかった:『数冊の本、いくらかの煙草、私の思想それにジョンス・ホプキンス・ホスピタルを投げ出したことへの大きく激しい哀惜の念とともに私は明らかに孤独です……このように病院のストレスから解放されるとタイヤのパンクした自転車みたいです。』
リヴァプールに着陸した日から12ヵ月以上も経った後に帰国するまで毎日詳しい日記をつけている。大半は医学的な事柄である。しかしながら日記はまた、彼の人物評(しばしば抜け目なく、しかし、しばしば非情に批判的で)や、訪問した博物館や名所の記録もある。しかし政治的なことには、たとえばボーア戦争、ボクサー革命(ロシアに満州を占領させ日露戦争を起こした)、64年間の治世のあとのクイーン・ヴィクトリアの逝去、あるいはドイツの帝国主義の興隆など一切注目していない。
7月の3日にロンドンに着いて、大英博物館から程遠くないブルームスバリー地域のトリントン・スクエア69番地にトーマス・マックレーと落ち着くことにした。翌日はユニバーシテイ・カレッジ・ホスピタルとクイーン・スクエアの麻痺ならびにてんかん患者のための病院の外科医ヴィクター・ホースリーと朝食をともにした。クイーン・スクエアは神経系の疾患に罹患した患者のためのもっとも古く有名な病院である。ホースリーは大半を神経系に捧げた英国の最初の外科医である。
わずか24年前1876年(明治9年)にグラスゴウのウイリアム・マキュウエンが彼の患者の脳腫瘍を診断した。しかし手術の許可が出るのがあまりに遅かった―――診断は剖検で確認された。8年後、脳手術がロンドンでジョセフ・リスターの甥リックマン・ゴッドリー卿により生きた患者で成功した。アメリカでの最初の手術はフイラデルフイアのジェフアーソン医科大学のW・W・キーン博士によって1887年=明治20年に実施された。彼が摘出した腫瘍は今でも医学博物館に保存されている。これらの手術は―――外科手術の歴史における大事件―――は麻酔の発見(1846年=弘化3年)、リスターの無菌法の導入(1867年=慶応3年)、フリッチュとヒッチヒの運動領野の研究(1870年=明治3年)の以前には不可能であっただろう。
脳のどの部分が、身体の各部の感覚や運動を支配しているかを示すこれらの研究は、さらにデヴィッド・フエリエ、ヒュウリング・ジャクソン、ウイリアム・ガワーズやそのほかの神経学者たちによって推し進められた。そして彼らが集めた知識が基礎になって、マキューエンが1876年に患者の腫瘍の局在を明確にすることを可能にしたのであった。
ヴィクター・ホースリーは最初の脳手術を1886年=明治19年5月25日に行った。そして次の年、脊髄の手術にも成功した。同じ年に腫瘍の摘出ができない場合に症状の寛解を得る手術―――後にクッシングが「減圧術」と呼んだ方法を行った。初期にはいい結果ではなかったが、ホースリーは1900年=明治33年までには多数の成功例を保持した。それゆえ、クッシングが7月4日の朝キャヴェンヂッシュ・スクエア25番地(註1:クイーン・スクエア病院でホースリーの前任者であった偉大な神経系の学徒―――フランス人生理学者シャルル・エヅアール・ブラウン・セカールが一時住んでいたことがある)には大きな好奇心を以って歩を向けた。ホースリーは元気旺盛で温かい人柄であることがわかった。ホースリー夫人も子供たちも朝食をともにした。ホースリーは来客のクッシングと男の秘書との両方に話をした―――いささかクッシングはがっかりした。9時になって彼が呼ばれた理由がわかった―――脳の手術の予定で消毒の準備に10分しかない慌しさだった。彼は後日父親に報告している:『僕はヴィクター・ホースリーにいささか失望しました。彼は疑いもなく研究室向きです。僕は彼のやっているいくらか興味ある仕事を見ましたが―――しかしながら大半が神経学的です。今日は対麻痺を来たしている脊髄の症例、2、3日前は脳の症例でした。月曜日にはガッセル神経節の手術です。僕は興味を以って見るつもりです。この人の技術はすべて、われわれの観点からみると恐ろしい感じです。これでは傷が化膿することが多いでしょう。』
ホルステッドの高弟にハイ・スタンダードから見て物足りなく思われていることに気づいていないヴィクター・ホースリーはクッシングがロンドンで落ち着いて会いたい人に会わせ見たいものを見せることに親切の限りを尽くした。オスラーもまた彼が英国医学界のたくさんの高名な人物―――なかでもジョナサン・ハッチンソン、ウイリアム・ブロードベント卿、ウイリアム・ガワーズ卿それにジェームス・クリッチトン・ブラウン卿に会える機会を作ってくれた。それは若い者にとっては得がたい機会であり、心から感謝している。『オスラー博士と一緒に歩くのは楽しいです』と父親に書いている、『彼は独特の方法で事物の含蓄を得るからです。』
時には独りで、時には友人ヘンリー・バートン・ヤコブスと一緒にロンドン中の病院を訪ねて回った。1137年=保延3年設立されたセント・バーソロミュウ、セント・トーマス(1215年=永正12年)、ガイズ・ホスピタル(1725年=享保10年)などである。ガイズの偉大な男たちの精神が病院にみなぎっていた。リチャード・ブライト、トーマス・アヂソン、トーマス・ホジキンそれにジェームス・パーキンソンなど2、3の名前を挙げただけだがすべて病気を記載した人々で今でもその名前で知られている。『立派な病院です。たとえばアメリカの比較的新しいM・G・Hのような病院よりも時代遅れではありません。』
しかしながら、ハンター博物館ほど過去の医学を生き生きと目にすることの出来るところはなかった。彼は繰り返し繰り返しこの偉大な博物館を訪ねた。異なった人種の13,000以上の―――各種の健康体と病態の変異―――標本を擁していた。彼はかの多彩なスコットランド人ジョン・ハンターの存在を感じた。
外科を科学的医学の一分科に引き上げ、実験病理学の科学を設立した人。
クッシングは彼の職業的な活動と並んで、古いロンドンの町のささやかな香気を求めて歩いた。ガイズ・ホスピタルの街角にジョージ酒場があった―――『愉快な古い場所です。デイケンズのピックウイック・ペーパーズにサム・ウエラーが最初に現れる場所です……今朝リンカンズ・イン・フイールドの王立外科協会から帰ってくるときに[ブリーク・ハウス]と[古い好奇心ショップ]を通りました。』2階バスに乗って「ペピー氏が生きていた頃大火事で焼け野が原になった古いロンドンを通り抜けた」。ある夜オックスフオード街で一人で3シリングの夕食をとったところワインを飲んでもいないのに6シリング余計に勘定されていくらか憤慨している。彼は英国でのワインの消費が少なくないのに驚いている―――質問は「ワインがお入用ですか?」ではなくて、「どのワインにされますか?」だと述べている。しかしながら、オスラーのためにジョナサン・ハッチンソンが開いた有名人の晩餐会ではワインが活気を与えたことを認めている。彼はこの会に呼ばれたのを「身分不相応」と感じながらも、やはり嬉しがっている。
ドーセットシャイヤーのスワネイジという村、村はワイト島に面した大きな白い断崖に囲まれた湾の岬にあった―――にいたオスラーを訪ねて週末を過ごした後、クッシングは英国王立外科協会の設立100周年記念式典に出席するためにロンドンに戻った。世界各国からの医師たちが式典に参加するためにやって来ていた。クッシングは集会や展示会に熱心に参加した。そして故国からの懐かしい面々―――ボストンからのウオーレンとリチャーヂソン博士たち、キーン博士にホルステッド博士に会ってこの上なく喜んだ。数日後に、式典で名誉学位を受けたホルステッド博士、オスラー一家、1800年=寛政12年亜酸化窒素=笑気に麻酔作用があることを観察したハンフエリー・デーヴィ卿の孫ハンフエリー・ロールストンなどに別れを告げパリへ旅立った。「すばらしい[彼の最高の賛辞]」と書いている『興味深い話と立派な古い書籍がたくさんあります。』
8月1日の正午、彼は6カ月前に約束したホプキンスでの友人ウイリアム・マックカラムとエッフェル塔で再会した。それから1週間一緒に第13回国際医学会に参加した。クッシングが大きな国際学会の盛観と色彩に接するのは2回目であった―――79歳のウイルヒョウがリスター卿(73歳)と一緒にいて注目の的であった。彼はすべての生物は細胞からなっているという学説を推し進めていた。学会におけるもうひとつの華やかな景観はエルンスト・フオン・ベルクマンの存在であった。彼は頭部外傷と脳疾患に関する研究で有名であったので特にクッシングの興味を引いた。しかし、各国語による医学会はいささかうんざりしたので、ある日ウイリアム・J・メイヨーとシカゴのよく知られた外科医A・J・オクスナーと連れ立って会場を抜け出した。セーヌ河を見下ろす石の欄干で、自分たちの学会、やがて臨床外科学会となる会を作る計画をした。
学会が終わって、クッシングはセーヌの対岸に移った。そしてラテン・クオターに小さな部屋を見つけた。ここならフランス語をもっと聞けるし、ここから毎日6時間の「病院歩き」と彼の愛するパリの観光に出かけられた。愛想のよいフランス人の方が英国人よりも、よりアメリカ人のようだと彼は考えた。
病院を見学して、不注意な手術手技、患者の感情の無視、婦人を公衆の前で診察、男性を無造作に裸にしたり―――病歴の欠如、貧弱で不潔な病棟、そして、麻酔や無菌や記録に関する無関心などに驚いた。彼の日記は手術や器具、薬物の詳しい記録でいっぱいになった。インターン生の中には4年間各科をローテイトして月100「フラン」もらっているという記録がある。ついにオピタル・ド・ラ・ピテイエでアンリ・ハートマンの手術を見る機会を得た。「今まで見た中で初めての立派な手術」と評している。彼はハートマンの研究室を訪ね、彼の「科学的本能」に感嘆した。夕食に招かれ別冊をたくさんもらって帰り、その一部を直ちにホルステッドに送っている。
8月16日にグルスヴナー・アタバリーがパリにやってきた。そして一週間後に二人は「世界で一番美しいところ」ル・プイ・アン・ヴレイへ行った。一世紀を経たすっきりとした村であまり観光客は来なかった。美しい風景と素朴な村人に啓発されてのクッシングのこの旅のスケッチが彼の旅行日記のすべてのなかで最も完成された芸術性を持っている。(註2:この日記 ル・プイ・アン・ヴレイ紀行は1944年=昭和19年にクリーヴランドのロウフアント・クラブから限定版として出版された。今は絶版となっている)
もう一月パリにいたあと、クッシングは10月11日スイスのベルンへ向けて旅立った。そこではホルステッドが賛嘆する名外科医テオドール・コッヘルのもとで研究するのが望みであった。途中フランスとスイスの著名な医師のいるクリニックを訪ねた―――リヨンの眼科医ルイス・ドール、ジュネーヴ大学外科学教授オウギュスト・ルヴェルダン;今まであった誰よりも人となりを手本にしたいと思ったローザンヌのセザール・ルーなど。
10月31日にベルンに到着して、下宿屋に落ち着いた。早速17世紀の建築で狭いアーケードの街路や妙な形をした門など壁に囲まれた町を探索して回った。コッヘルは期待以上の人物であった。やせて、すっきりして、むしろ背が低く内気で控えめで時には厳格な印象を与えた。クリニックと手術室での彼の仕事振りにはクッシングは最大の賛辞を呈した。ついにヨーロッパに来た甲斐があった―――『用意周到で細心の仕事振り、精密な技術、その上、ボルチモアでわれわれの持っているすべてを持っている。非凡で、華やかで、仕事の速いルーときわめて対照的である。』また息子のアルベルト・コッヘル―――何たる手術!『ジョンス・ホプキンス病院が負けです』とクッシングは父親に書いている、『どうしてホルステッド教授があれほど尊敬していたかよくわかります。』
しかし、彼の高邁な精神も次第に日が経つにつれ、またコッヘルがテーマを―――公式に大学の研究室で研究する前に必要なことがわかった―――申し出てくれないので落ち込んできた。その上、天候が絶え間なく雨が降り荒れてまったく日が射さないので、うつ状態になり始めた。失望感はベルンを去りハイデルベルクへ行く決心をさせた。しかし出立の前にハーレリアヌム(註3:ベルンの偉大な生理学者アルブレヒト・フオン・ハーレルの名誉のために名づけられた)と呼ばれている生理学研究所を訪ねた。そして、所長フーゴ・クロネッケル教授の友好ぶりにすぐさま惹きつけられた。『彼は親切で小柄な人です。』とクッシングは父親に書いている、『ボウヂッチ博士[クッシングのハーヴァード時代の生理学教授]の親友であり、彼の特別な分野では指導的な立場にあり、アメリカの生理学者の間にもよく知られています。』クロネッケルの方もクッシングを気に入って、コッヘルに対して研究所で働いてくれれば嬉しいと申し出たようである。その結果はクロネッケルからの公式の招待であり、クロネッケルとコッヘルの両方からのテーマであった。勉強ができてクッシングにはまた楽しい世界がやってきた。
クロネッケルは研究所に彼のための場所を作ったばかりでなく、自分の家庭をも開放した。クロネッケル夫人と娘のシャーロットの二人とも親切であった。彼らの度重なる招待は次々に大学のほかの教授たちや町の人々の家への招待となった。クッシングは「そり」を買って「ギー・ウイズ」と名づけて次の月には郊外のスロープを滑降していた。その熱狂ぶりと陽気な様子に胸をときめかせたベルンの乙女が一人ならずいた。しかし、彼自身の心はオハイオのクリーヴランドに帰っていた。ケイト・クロウエルに宛てて11月21日に書いている:
『わたしのいとし子よ。貴女の手紙が少し気にかかります。貴女が元気がないと聞くといつも飛んで帰郷して一時も早く結婚しなければと思います。こんなに長く待たせる僕は邪悪です。あのボルチモアの月夜がなかったら、今頃貴女にはどんなにか違った人生があったかも知れません―――しかし、おー、僕の人生はどんなにか空しく絶望的だったことか!貴女以外には考えられません。貴女という幸運をつかんだのに僕はなんと利己的なのでしょう。』
一ヵ月後に彼はまた同じような調子で書いている:
『口を開けて職業の釣り糸の錘を待っていること、あるいはそこに選ばれることを想像する理由はありません。現在研究して執筆することを止めるべきではないと思います。この年のあと、もし僕がどこかいい大学の地位を得る考えと希望をあきらめて、また新しく研究の道を始めたとしても、貴女が最良の援助をしてくださることを知っていますが、僕は貴女をそのような立場におきたくありません。僕は家具の整った暖炉があかあかと燃えている家に貴女を迎えたいと望んでいます。』
12月の初め、クロネッケル教授はクッシングとベルンで働いていたエール大学卒業生のJ・ホルムス・ジャクソンとをニーデルホルン(6,445フイート=2,000メートル近い)の頂上を踏破する登山に連れて行った。彼らは一夜麓の小さな宿屋で過ごし、翌朝ガイドを連れて登頂を開始した。ポケットにはかたゆでの卵とチョコレートだけ入っていた。足下の湖にはユングフラウ、ヴェッターホルンその他の連峰が映っていた。クッシングは満月の光に照らされた山々、あるいは遠のく青い陰に朝日が最初に射してバラ色に輝く山々いずれが美しいか決めかねた。鮮やかな風景を父親に告げる手紙は彼の仕事と社交生活のコメントが続いている。
『…生理学の研究室で勉強する機会に恵まれたことは、本当によいことだと思います。生理学の研究は外科学と隣り合わせですから、たとえ、この研究で見るべき成果が上がらなかったとしても、必要に応じて外科学と生理学を平行して読むのに役立ちます。人々はみんな非常に親切で―――いろんな方面から期待されているらしく社交的義務を果たすのに困難を覚えるほどです。
たとえば、明晩はツインメルマン教授の宅で開かれる医学部の抄読会にコッヘル教授と一緒に招かれています;火曜日夜はクロネッケル教授宅;金曜日はレクターの家[大学総長]へ―――大変だ!昼間は盛んに蛙の脚を大動脈からいろんな種類の輸液で灌流して筋肉の曲線を測定しています。同じような条件で僕自身の筋肉をテストしたら、今夜は、きっと著明な疲労の証左が示されることでしょう。』
しかし、彼のぼやきにもかかわらず、社交的な宴会は彼の時間の大半を占領した。彼とジャクソンとは1月にもう一人のエール・マン、ジョン・B・ソルリーと一緒になった。3人は晩餐のテーブルに着くまで手袋をしていること、食事が終わって応接間で一休みしたらドイツ式の奇妙なワルツを晩餐のパートナーと踊ること、大変なご馳走の合間に特別なスピーチが織り込まれ、如何に夕方8時から朝の4時までつづく大学の舞踏会に耐えるかなどを覚えた。『死闘8時間です―――考えても見てください。僕の蛙の肢がそれだけの時間攣縮してくれればと願います。』しかし、彼はベルンの友好的な雰囲気にアット・ホームを感じ、教授張りの口髭を生やすほど事物の精神のなかに入っていった。口髭は毎朝ピンと立てようと努力しても朝食のあとには垂れ下がってきて喜劇に出てくる悪漢の雰囲気を与えるのであった。
ケイト・クロウエルに彼の進歩について書いている:『僕たちは科学者になった心算で研究室で忙しく勉強していますが僕はどうしても科学者とは言えぬようです。しかし科学者たちと一緒に勉強をし彼らのやり方考え方を学ぶのは真にためになることです。』彼の父親には『コッヘルは今までのところ僕の研究した成果に満足しているようですが、僕自身は課題を追求する方法や手技について、まだ十分こなしているとは思えません。』彼がコッヘルからもらったテーマは脳内の圧が循環と呼吸にどんな影響を及ぼすかであった。彼の実験にはサルをつかったが、深麻酔のもとに動物の頭蓋に小窓を作ることを思いついた。小窓を通じて、呼吸と血圧を記録しながら脳圧の効果を観察できるのである。彼は脳圧が上昇すれば収縮期血圧も対応して上昇する、しかし、頭蓋内圧が血圧を凌駕すると脳への血流はとまり、動物は死ぬことを発見した。
『このほかに、休日にはクロネッカー先生のために、もう少し厳密に生理学的な研究をこつこつやっています。時には緑色の時には褐色の[パンツ]をはかせた惨めな一対の蛙の下肢に、時計、バッテリー、誘導電流コイル、あらゆる種類の輸液用液体のフラスコ、などの器具機械を取り付けます。クロネッカー教授もまた僕には十分理解できませんが研究の成果に満足しているようですので僕自身感謝している次第です。さらにコッヘルのクリニックに行って、時たま彼が診る脳や胃の症例を観察します―――時にはその週の講義に出ます―――十分に忙しく、ご想像のように疲れています。』
仕事を続けながら、われに帰ると自分の将来が気になった。自分の考えを明らかに述べたらしいトーマス・マックレーから2月に書いてきた:『……主任[オスラー]が最近僕に君は一体どうするのだろう、と聞いた。僕は言った。僕は君がどうしたらよいかわからないのだ、そしてホルステッド博士がどう考えているかがわからないのだと。[主任はいや誰にもわからないのだといった]彼は君が外科サイドでは重要な立場にあり[精神]を持っており誰よりも先に行くといっていた。君は将来を憂えないほうがいい。どこかにいい地位が見つかって万事うまく行くはずだから大丈夫だ。前途洋洋だよ。』
ボルチモアからの刺激が彼の初めての医学史の著述を試みることを促した。オスラーからホプキンス会報に何かベルンについて書いて送るようにと言って来たのだ。クッシングはアルブレヒト・ハーレルについて書くことを勇気付けられた。彼がこの町に来た最初の日から関心を持った人物である。『スイスの偉大な生理学者であり詩人であったハーレルの思い出はベルンと多くの点で密着している……彼の最良のまた最も永続的な記念はクロネッカーの研究室の図書室の書棚に見出される……彼の科学的業績を集めてラテン語で1755年=宝暦5年に出版された12冊を超える全集であり、今日でも多く引用されている。』彼はハーレルの精神の広大な幅と絶大なエネルギー―――生理学者、解剖学者、植物学者、文献学者、詩と散文の著述家として有名になったことに魅了され、オスラーに言われた短文の心算が「ハーレルとその故郷の町」と言うタイトルの大論文になってしまった。
3月になるとクッシングは「一周旅行」の割引を利用して北部イタリアを訪ねることに決めた。3月31日にチューリンに向けて旅立ち、そこで、多彩な人生を送ったイタリアの生理学者アンジェロ・モッソの研究室で1カ月間働いた。ここではベルンでの実験をイヌで行い成功した。モッソはそれを見て感嘆した。彼はケイト・クロウエルに書いた:『実験で幸運にもいくつかのことを見出しました。それで有名になるわけではありませんが、僕やほかの人々が脳手術についていくらかでもよりよく理解する助けにはなりましょう。』
町の北端にある患者6,000名を擁するカソリックの病院にも興味を惹かれた。
…自分はこの回廊を忘れることはないだろう――― 一部地下にもぐったような―――尼僧が溢れ、たどたどしく歩く患者が溢れ―――聖歌隊の行列で溢れ―――医者からたわごとをしゃべる発育遅滞者にいたるまでみんな幸せそうで満ち足りているように見え―――大きい寄宿舎のような62ベッドもある病棟―――低い丸天井で、真鍮製のポット類が置いてあり、青いスカートの尼僧たちが立ち働いている風変わりな台所……
何よりも驚くべきことは朝のミサから出てくる遅滞者の行列―――2、3百人が十字架を持った神父に従い、歯をむき出し、嘲笑い、身振り手振りしながら古い門をくぐり、絵のように美しい中庭を横切って、われわれの周囲に群がってくる。一方、残りの仲間は、われわれの後方の地下室の窓から早口にくだらぬことをしゃべり嘲笑う。恐ろしく気の滅入る光景―――異常なまでの絵のような―――さまよう連想の小道もなく魂が運動と感覚の面の制約のなかでなおも生き続ける―――回想の微光もなく、未来への恐れもなく、単純な存在、ひとつの謎。
この旅行中、クッシングは教会の物々しさや権力を示すものは敬遠していた。しかし教会の美しさ―――黒い大理石の大きな柱、巨大な銀の飾りと大燭台、鳴り渡るオルガン、少年聖歌隊の高い甘い声など―――には心を動かされた。
チューリンに一月いたのち、ジェノアに移動してここではクリニックや病院を見学した。それからピザ―――『雲ひとつないイタリアの空の下ぎらぎら光り、木一本ない、死んだような町―――いったい何を待っているのだろう?しかし、古い城壁の一角に自分にとっては興味深いところがあった。そしてカンパニーレとバテイステロは広い日光の下であまりに美しすぎた。』しかし、フローレンスは彼を魅した。特にロビア式円形浮き彫りを持ったインノセント病院、その「近代的な世紀末の美女たち」、その清潔さと近代的設備。セント・マリア病院新館では「明らかに批判を超えた現代手術室,」そこには150人の学生を収容できて―――みんなが見学できる―――それは今までにヨーロッパやアメリカで見た「近代的な目的のための最良のモデル手術室」であるとほめている。ここで彼はバンテイの肝硬変に関する講義を聴いた―――『もっとも興味ある人物でクリニックの扱い方もウイリアム・オスラーに似ているなら教え方も熱心でそっくりだ。醜い容貌で―――死体のように青ざめて、青い目の片目は斜視で鼻にいたっては当然キャボット家のものといったところだ。』
次いで彼はボローニア―――『にぎやかで、光り輝く、美しいフローレンスから鈍く容貌の醜いボローニア―――何と言う変わりよう?』彼は大学の解剖学教室には感激した―――『部屋は単純な木造であるが時間が与えたその色艶はいかなる人工的な過程もなしえず―――その部屋はたとえ芸術的見地から言っても美しくはなくつまらないものだったにしても、いまなお、祭壇の前にいるかのごとく脱帽して立たざるを得なくする。というのはガレン以来長い期間放置されてきた解剖学の研究がヴェザリュウスによって再び目覚めさせられたのは、ここだからである。』彼はまた演壇の支柱の木彫りの像が気に入った。解剖学教授エルコレ・レリが1734年=享保19年に彫刻したものである。彼は父親に『彫像の芸術的なポーズの美しさに魅せられたのか、個々の腱にいたるまで解剖学的な細部の完璧さに魅せられたのかを言うのは難しいです』と書いている。
5月1日にパドウア「美しく古い城壁に囲まれた町」に到着した。ここでもまた、幾世紀にもわたる歴史が大学の建物に豊かに刻まれていた。ここは数百年にわたって学者たちの遍歴の終着点であった。ヴェザリュウスもまたここで教えたことがあり、アクアペンデンテのフアブリクスが松明のゆらめく明かりのもとで熱心な学生たちに静脈弁を示説講義した。その中に後年血液の循環を発見したウイリアム・ハーヴェイがいた。
ヴェニスは夢の町であった。ここではケイトや故郷のことを思い、ベルンに帰って自分の仕事を早く済ませたいと急ぐ気になってきた。パヴィアでリヴァ・ロッチが血圧の記録に使っていた器具のレプリカを手にいれるため一日遅らせて、それからミラノへ行き、5月11日についにベルンへ帰った。
5月中、実験の完成を目指して激しく働いた。コッヘルのクリニックにも毎日通った。6月5日水曜日夕方、彼は彼の言葉によるとクロネッケル教授によって「もっとも途方もない経験」をさせられた。クッシングがグラスゴウへ旅立つ前にクッシングの業績に目を通したいと言ったのである。クロネッケルが腕まくりをして、大きなポット一杯コーヒーを沸かし、クッシングの実験の結果を口述し始めた夜にクッシングの独立不遜の精神は火のごとく燃え上がった。クッシングはクロネッケルに言った―――アメリカではこんなことが行われることはない―――もしクロネッケルが論文を出版したければ、まず自分が書いてそれをクロネッケルが好きなように訂正したらよいと。いくらかの怒りの言葉の後、クロネッケルはクッシングが自分のペーパーとすることを認めた―――この弟子が只者ではないことを認識したのである。
6月3日、コッヘルのテーマについての実験結果のクッシングの示説は多数の教授たちの集まりの前で行われ、ただならぬ関心を呼んだ。実験結果の報告書は6月14日の11時に書きあがり、嬉しさのあまり、その夜のうちに原稿をコッヘルの許へ届けた。友人のアッシャーが論文をドイツ語に翻訳してくれた。たくさんのサヨナラ・パーテイのあと、6月27日ストラスブールへ向けて旅立った。父親にも母親にも言わなかったことを、兄のネッドだけに漏らしている『僕はベルンでの最後の3週間か4週間はまったく馬鹿だった。離れる前に仕事が済むかどうか不安で、張り詰めて暮らしていることにあまり気づいていなかった。だから報告書を読み終えた途端にコラップスしてしまったのだ。』
ストラスブール、ハイデルベルクそれからボンと急ぎ足で見て回った。彼が行ったところでは何処でも医学的に指導的な人物に会うことが出来て幸運であった。しかし、彼は疲労状態であったので何処でも長く滞在する衝動を感じなかった。7月4日彼はロンドンに帰った―――最初の日、ガイズ・ホスピタルにジョージ・ドックとオスラーの甥ウイリアム・フランシス医師たちを訪問して過ごした。
彼はヴィクター・ホースリーに彼の許で研究はできないかと手紙を出したが、まもなくリヴァプールのチャールス・スコット・シェリントンのところを訪ねるように勧められた。シェリントンはリヴァプールの生理学の教授で丁度いろんな種の霊長類―――チンパンジ、オランウータンそれにゴリラの脳を使って一連の実験的研究を始めるときであった。
そこで、クッシングは7月7日リヴァプールへ行った。そして最初の1週間は研究の過程を決めたいとして幾分苛立って過ごした。シェリントンが彼のために特に示唆を与えなかったからである。すでに神経系の学徒として、高名であったから、クッシングにとってシェリントンは驚きであった。彼は思っていたよりも若くほとんど少年のようだった。『どこかに置き忘れていないときには金縁眼鏡をかけていた。』シェリントンは生理学者としてはうまく手術したがクッシングはあまりにやりすぎると思った。事実彼にはいくつかの批判があった―――シェリントンはあまりに多く執筆し出版すること、何でもあまりに早いこと、観察の結果をノートしないこと―――万事が万事で、クッシングは期待していたほど「まったく偉大な人物ではなかった」とこき下ろしている。さらにクッシングはほとんどすべての生理学的観察が論争あるいは種々の解釈に開放されていること、ならびに実験神経学がもっとも基本的な状態にあり、多くの未解決の問題が提起されていることに驚かされた。
コッヘルやモッソとの実験的研究ですでに脳への関心が呼び覚まされているのに加えてこれら未解決の問題へのチャレンジがクッシングを決定的に神経学ならびに神経外科学の方向に向かわせたものと思われる。いずれにしても彼はすぐにシェリントンの研究に没頭した。そしてシェリントンが彼の外科的技能を認めて彼にゴリラとオランウータンの頭蓋骨を開けてくれるように頼んだときには非常に喜んだ。日記に書いている:『ゴリラに穿頭するなんて滅多に経験できることではない。
それが昨日出来たのだ―――昨日はオランウータンに、その前日はシェリントンがチンパンジーにやっているところを見た。大規模な実験で―――費用もかかる。ゴリラ氏は病気で気候にも馴れていないけれど(リヴァプールにはわずか24時間前に到着)250ポンドもする。』
月末に向けてシェリントンが大陸へ出かけたのでクッシングは仕事を切り上げてグラスゴウへ行き、トーマス・マックレーと会うことにした。二人でスコットランドの小旅行をする計画を立てていた。彼はシェリントンを尊敬するようになり、いつしか二人は親しい友人となった。彼が最初の日になしたような初期のナイーヴな批評に戻ったら、クッシングは当惑し、シェリントンは面白がるに違いない。
クッシングがあれほど熱心に興味を示したロンドンのハンター博物館のジョン・ハンターの兄弟ウイリアム・ハンターがグラスゴウに残したハンター博物館がここでもまた主な関心であった。ロルヌノフアース、エデインバラを訪ねたあとノース・バーウイックにいるオスラー一家を訪ね、さらにリード、マンチェスター、そしてリヴァプールと旅し、8月15日帰国のために出帆した。
クッシングは批判的で傲慢な目で旧世界に接したが、しかし、その後は繰り返し戻ってその提供するものすべてを吸収した。このたびの訪問から神経系の神秘性に深く取り組むという決定的な希望とホルステッドから6月に受け取ったいくらかあやふやな招聘状とを持ってホプキンスに帰ってきた。エールでの同級生ジョン・B・タウンゼントがこの春ヴァージニアのオールド・ポイント・コムフオートでウイリアム・オスラーに会ったときに尋ねた。「僕の友人ハーヴェー・クッシングはいったいどうしていますか?」オスラーは未来を予見したように答えた。「あなたの友人クッシングは外科学の教科書に新しいページを作りますよ」と。(つづく)
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