随筆・その他
カ ッ パ ド キ ア 地 方 の 中 皮 腫 発 生
−文明の十字路トルコ世界遺産の旅から−
トルコは、「東西文明の十字路」に位置しており、大変親日的で、イスラエル・パレスチナの双方と「良い関係」を維持し、イスラム教国家ではあるが政教分離でEU正式加盟を求めており、1985年のイラン・イラク戦争のとき、イラク軍がテヘラン空爆を開始する中でテヘランに取り残された日本人救出のために特別機を飛ばしてくれたことなどは、私の記憶に残っていた。しかし、ヨーロッパでは最初に1930年に婦人参政権を認めており、食料自給率は100%、エネルギーは原子力に依存していないなどというこの国の事情については、不勉強で全く知らなかった。
予てから、トルコの世界遺産を訪ねてみたいと思っていたが、この度実現したので、この旅で感じたことなどを記してみたい。
トルコの世界遺産を駆け足でめぐる
私の海外旅行は、学会出席などの機会にもっぱら個人旅行をしてきた。しかし、会話もままならない国で効率的に世界遺産を巡るには、旅行会社のツアーに便乗するのが得策と考えた。そこで、『文明の十字路トルコ大周遊12日間』 というツアーに参加することにした。このツアーでは、専用の長距離バスに乗って実に効率的にトルコの主要な世界遺産を巡ることが出来た。
トルコの歴史は、BC6500年頃の新石器時代に始まり、青銅器時代、BC2000年頃からの製鉄と騎馬の帝国ヒッタイト時代を経て、ギリシャ人の都市国家時代、ヘレニズム時代、ローマ帝国への併合の時代などキリスト教国家を経て、イスラム教国家のオスマン・トルコ時代へ至る。
そして、600年間のオスマン帝国の後、第一次世界大戦での敗北を期に、ムスタファ・ケマル・パシャ(アタチュルク)が、革命によって1923年に共和国を建国して、その後、驚異的な経済発展と徹底した近代化を実現して現在に至っている。
したがって、この長い年月に多くの民族国家が興亡して多様な文化を育んできたこの国に関しては、今回訪れた世界遺産だけとっても、それらの内容を簡単に語ることは極めて困難である。
ともあれ、旅は、まず関西空港からエールフランスでイスタンブールへ入り、イスタンブールからは、専用バスで、ヨーロッパ大陸とアジア大陸を隔てるダータネルス海峡を渡り、神話のトロイの木馬で有名な世界遺産トロイ遺跡へと走った。
ついで、BC241年に建国されたベルガモン王国の都でベルガマのアクロポリス遺跡へ。ここでは、ヘレニズム文明の素晴らしい遺産を数多く見ることが出来たが、発掘したドイツ人フーマンによってベルリンのペルガモン博物館へ移されてしまった「ゼウスの祭壇」は、基石のみが残されていた。谷を隔てた隣の丘には、BC 4 世紀頃にギリシャ医学の神アスクレピオンに捧げられた聖地アスクレピオンの遺跡があった。ここは、保養施設とヒポクラテスも治療に当ったといわれる当時最先端の温泉療法を始め日光浴・精神療法・薬草処方・断食・マッサージなどの医療技術が集積したいわば「総合医療センター」の遺跡で、今回の旅で、ひそかに訪れることを期待していた。しかし、団体旅行の悲しさ、時間の関係で残念ながらここを訪れることは出来なかった。
ベルガマからはBC 6 世紀からAD 3 世紀頃まで特にローマ帝国の属領時代に繁栄して地中海文明屈指の遺跡群が眠る古代都市エフェソスへ。ここには、ハドリアヌス神殿やアレクサンドリア図書館に匹敵する蔵書を誇ったセルスス図書館(写真)、24,000人収容のトルコ最大の円形劇場、ヴァリウスの浴場、公衆トイレ、娼館などの跡があり、当時の繁栄の状況などに思いを馳せて興味が尽きなかった。
ついで、トルコ語で「綿の城」という意味を持ち、地中から染み出た石灰分が崖を流れ、白亜の石灰棚で有名なトルコ有数の温泉保養地パムッカレへ。ここでは、BC 2 世紀頃に造られた都市遺跡で、1,000を越す大規模な共同墓地(ネクロポリス)を包含する世界遺産ヒエラポリス遺跡を訪ねた。さらに、11世紀のムール・セルジューク朝以来の建築物が古都を彩るコンヤへと巡った。
セルスス図書館
カッパドキアからイスタンブールへ
専用バスは、東西の人や物が行き交ったシルクロードをひた走り、アナトリアの大地が造り上げた大自然の神秘に目を見張る世界遺産カッパドキアへと移動した。ここでは「妖精の煙突」と呼ばれる大小のキノコ状の奇岩で囲まれたギヨレメ(写真)や、キリスト教徒がアラブ人の圧迫から逃れるために地下に立体網状トンネルで何千人もの人々が生活圏を造り、さながら蟻の巣状の地下宮殿を造ったカイマクル地下都市などを感慨深く見学した。
ついで、紀元前2000年の遺跡が眠るヒッタイト王国の都で世界遺産ボアズカレのハトウシャシュ遺跡やヤズルカヤ遺跡を訪れ、さらに専用バスは一路走ってイスタンブールへ戻り、世界遺産イスタンブール歴史地区では、観光客が必ず足を運ぶ場所、トプカプ宮殿、ブルーモスクなどを駆け足で観光した。ここでは、紙面の都合でそれらの内容は省略したい。
ところで、この旅の途中のカッパドキアでは、アスベストに起因する中皮腫発生に関連して、この地方で中皮腫患者の多発が認められ、その要因として天然繊維エリオナイトによる環境曝露が問題視されていることが気になっていた。しかし、現地では残念ながら詳しい情報を得ることは出来なかった。
カッパドキア
アスベストとその他の中皮腫発生危険因子
アスベストは天然鉱物繊維で、その主な化学組成は二酸化珪素(SiO2)と酸化マグネシウム(MgO)からなる含水塩鉱物である。
アスベストの吸入による関連疾患としては、周知のごとく、アスベスト肺(じん肺の一種)、肺がん、中皮腫、非腫瘍性胸膜疾患が知られている。このうち中皮腫は、中皮細胞に由来する胸膜等に発生する悪性腫瘍で、発症までの潜伏期間が30〜50年と長く、アスベスト肺を起こさない程度の低濃度曝露でも発症する。然も予後は不良で、発症後数年以内に死亡に至り、5年以上の生存者は稀で、根治的治療法は今のところないとされている。
他方、アスベスト以外に中皮腫を発生する危険因子としては、戦時中使用された造影剤の一種のトロトラストや、天然鉱物繊維ゼオライトの一種であるエリオナイト(erionite、エリオン沸石)のほか、アカゲザルのポリオ・ウイルス(SV40, Simian virus 40)がマウスに腫瘍を発生することなどが知られている。
カッパドキア地方の悪性中皮腫の発生
トルコの中央アナトリア高原のカッパドキア地方では、以前から中皮腫の発生が多いことが指摘され、これに関する研究は少なくない。即ち、この地方では、火山性凝灰岩のエリオン沸石(erionite)(天然鉱物繊維のリョウ沸石群の一種)のブロックをカットして建屋や貯蔵室を造ったり、白色化粧漆喰などに使用されたりしている。このため、住民は日常的に家屋、道路、土壌などから気中粉じんとしてエリオナイト繊維に曝露されており、その曝露住民は100万人ともいわれている。
この問題に関する疫学調査がよく行われている村は、大小のキノコ状奇岩の林立で有名なギョレメや岩の要塞がシンボルのウチヒサールの北西に位置するツズコイ(Tuzkoy)や南東にあるカライン(Karain)などであり、これらの南方には、大規模な地下都市があるカイマクルやデリンクエがある。
初期の研究では、調査した村とその周辺の狭い地区で1974年から78年の間に50名以上の中皮腫が報告され、これらの地区は火山性凝灰岩で覆われており、そのなかにはアスベストやガラス及びゼオライト繊維が検出され、これら生成物質の非職業性の粉じんの吸入が中皮腫高頻度発生の原因と考えられた(Baris YIら, 1981)。
その後、自然界のゼオライト繊維の一種のエリオナイトの曝露と悪性中皮腫の高頻度発生との関係が疑われ、これを明らかにするために環境調査と疫学的調査が実施された。気中の繊維レベルは一般に低かったが、中皮腫が多く発生している村では対照の村に比べエリオナイト繊維の割合が高かった。同様の傾向は、羊の肺組織の繊維分析でも確認された。エリオナイト繊維が高い割合を示す村では、悪性胸膜及び腹膜中皮腫及び肺がんが高頻度であったが、対照の村では、4年間の調査期間では、そうした症例は認められなかった。
エリオナイトによる腫瘍発症要因と対策
調査したこれらの村の中皮腫発症には、SV40は関与していないことが分かった。また、カッパドキア地方では、中皮腫以外に、肺がん、胃・食道がん、白血病、腹部がんなどの発生率も高いことが報告されている。
中皮腫発生が高頻度のトルコの村に以前住んでいてスウエーデンへ移住した住民に対する調査によると、スウエーデン人に比べて男子で135倍、女子では1,336倍悪性中皮腫の発生が認められ、このリスクはトルコでの居住期間の長さに関係していた。
カッパドキア地方の中皮腫多発に関しては、エリオン沸石曝露の動物実験で他の繊維よりも発がんのリスクが高いことも分かっているが、遺伝的要因や感受性の大きさを指摘する報告もある。家系調査の成績では、エリオナイト繊維曝露により中皮腫を発症しやすい人々は、遺伝的に素因のある人々で、常染色体優性遺伝が認められるという。
なお、トルコでは、西トルコのキユタヒア地方にも悪性胸膜中皮腫が多発している村があるが、ここでは、白色化粧漆喰からアスベスト(トレモライト)が検出されており、アスベストが危険因子と考えられている。
カッパドキア地方のエリオナイト曝露による腫瘍発症の予防対策としては、素因のある人々への曝露回避のアドバイスなどは行われているようであるが、具体的な対策は余り進んでいないようである。
おわりに
日本とトルコとの交流の歴史は、明治時代(オスマン・トルコ時代)からというが、その交流の具体的な内容や、トルコという国の現況などに関する知識は、この旅行に参加するまでほとんど持ち合わせていなかった。幸い、アンカラ大学日本語学科の卒業生という現地の青年ガイドの博識と、懇切丁寧なガイドのお陰で、多くの興味ある事柄を学び、貴重な体験をすることが出来た。
この度の旅行で、トルコは私にとって大変親近感のある魅力に満ちた国となり、再びゆっくり訪れてみたい国になった。

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