第7章 髪が伸びて靴が摩滅する偉大なところ
クッシングのインターンシップ(あるいはM・G・Hの用語を使えばハウス生徒としての任命)は正式には 8 月 1 日に始まった。彼の任務は新しく組織された南病棟であったので最初はがっかりした。と言うのは兄のネッドは東病棟で研修しており、東病棟と西病棟はともに長い歴史と伝統があり、シニア医局員の机の蓋にはインターン生の印象的なリストが彫り付けられていたからであった。しかしながら南病棟のハウス・スタッフ−−シニアとジュニア・ハウス・オフィサー、エクスターンそれに「インターン生」−−は古いライバルのそれにも劣らない伝統を築きつつあった。その指導の優れたことについて、クッシングは多年後に「わたしは 4 人のチーフに受けた恩義を永遠に忘れないだろう−−20年前までは、ここでは卵巣切除術はあまりしないほうがいいと個人的にアドバイスされる状況だったのにそれを果敢にやってのけた絵のような開拓者ジョン・ホーマンス;手術手技の達人C・B・ポーター;輝かしい才能と不思議な外科的本能を持つジャック・エリオット;彼らの中で最も若く、勤勉家の中で最も寛大でジュニアに理解あるウイリアム・コナント」と書いている。
クッシングの新しい任務は、医学校時代の日々をまるでレジャーの日々だったと思わしめるほどであった。彼は滅多に病院を離れなかった−−髪が伸びて靴が磨り減る偉大なところです、と父親に告げている。彼の突進する勢力は時に一緒に働くことを困難な人柄にすることがあった。彼がシニア・インターンになったときに、彼のジュニア・インターンがクッシングは彼が気をつけているときにはきわめて魅力的な人物の一人でありうるが、彼が衆目の的となることを求めるときには競争相手を容赦することができなかったと評してひどく苦しめられたことを述べている。少し権力を与えられると、クッシングは強い野心を現して自分の共同研究者が彼の水準に達していないために、彼の努力が無に帰することが耐えられなかったのである。
しかし、家族に見せていたのは通常、彼の愉快な側面であった:「仕事は繁盛しています。午前中は外来診療部門で数例の興味ある創傷の包帯交換をやります。一日の残りはあれやこれやの雑多な仕事をやります。ここは珍しい興味ある症例がコンスタントに連続してくる偉大なところです。」また「 5 月の日々のような爽やかなすばらしい天気が続いています。そして夜はすばらしいハンターの月が照っています。たしか狩猟月でしたね、違いましたっけ?何はともあれ、病院の本館を遠くから眺めると下のほうの窓からの明かりが隠れ、一連のくすんだ四角な煙突に取り囲まれた円屋根を持つバルフィッチのゆるやかなドームだけが見えて、いつもの古い灰色の建物をまるで古い城郭か何かのように見せます。月光に照らされた病院の中庭は印象的な光景を造ります。」
彼の父親と母親が秋に訪問してきた。彼らがクリーヴランドに帰ってからの手紙のやりとりで父親と息子の間の関係が今までより親しくなったことを示している。クッシングは書いている:「無事に御帰着されたことを伺って大変嬉しく存じます。橋が落ちはしなかったかとか、線路が水で流れはしなかったかとか、その他の災害を心配したからです……わたしは雨の神が嵐を遅らせればいい、あるいは省略したほうがいいとも願いました。……気象台測定によるとあの時は24時間に 5 インチの雨量だったそうです。……父上はご出発の日にM・G・H・にお出になり、こうもり傘を置いてゆかれました。『もはや用はあるまい:これが最後の雨じゃろう』とおっしゃって。」これには父親が温和に切り返している「お前がひょうきんに書いているあのこうもり傘は古いものではなくて買いたての新品なのだ、いい形の柄はオレンジの木だし、絹もしっかりしてボストンの雨にも耐えられると思う。」これに対しH・C・は軽いタッチで答えている:「わたしがたとえ新しいことにお礼は述べないにしても決してけなしているつもりはありません。わたしは頑固な息子のために自分のものを犠牲にされたのかと考えたのでした。」
11月末、短い休暇を取って帰省した。そして、引き返すときに彼のトランクを荷造りして入れたズボン下の数のことで母親をからかっている−−「大きく長いズボン下『彼のやせ細った向こう脛にはその幅が広すぎた』そしてアンダ―・シャツの数の貧弱さ。」しかしながら、クリスマスが問題の解決の可能性をもたらした。病院のクリスマス・ツリーを取り持ち、飾り上げ、みんなへのプレゼントを用意するのは彼の役目であった。クリスマスの 4 日前になっても、彼はその準備をする時間がなかった。しかしやり遂げると母親に宣言している−−たとえヨードフォルムのガーゼでツリーを飾ってでも、「各人のために、あのズボン下のペアを犠牲にしてでも。ペインター以外なら穿けるに違いないから。」
新年早々、前年の12月28日ウルツブルグ大学の物理学教授ウイリアム・レントゲンによって発表された新しいX線についてのニュースがボストンに届いた。クッシングは興奮と熱中に満ちた。「レントゲン博士は彼の陰極線で医学の診断法に革命をもたらすような何かを発見しました」と父親に書き送っている。「石の壁を透して」物を見たり、胸壁を透して肋骨の数を数えたり、心臓の鼓動をみることのできるX線のすばらしい不思議な可能性に魅惑された。彼は病院にX線の機械を導入するために個人的にいくらかの寄付をした。そして、それで針や異物の位置づけに有用であることを見つけながら何時間も過ごした。
彼の手紙は今までより短くなってきた。しかし、彼は時たま彼の活動について、このようなコメントでヒントを与えている:「仕事ははかどっています。エリオットはよく教えてくれます。わたしはエリオットが腹部手術にかけては院内随一だと思います。」とか「モーリス・リチャードソンと医局員 2 − 3 人とこの間の夜、夕食をとりました−−アッベからモーリスへニューヨークから送ってきたエジプト産の鶉です。モーリスは変わった奴です。」
春の間にネッドの古い患者が病院にやってきた。「彼は足の拇指の複雑骨折でネッドのいたころ28病棟にいて膝を損傷していました。
クッシング兄弟の協同作業努力によりいまやこの患者の脚は元気に回復しています。」「25ドルの金貨にも負けない」というのがもう一人の患者が自分の脚を評して言った言葉であった。シニアー・サージアンはこの脚は切断しなければならないといったが二人の若いインターン生がやってきて脚を診て患者のベッドに座り込んで討論を始めた。二人とはハーヴェー・クッシングと親友C・アレン・ポーターであった。彼らは脚を温存すると決定した。クッシングがシニアを手術させてと説きつけて信じさせた−−その結果が35年後に患者によって報告されたのである。
4 月にクッシングはケイト・クロウエルに誕生日のプレゼントのお礼を書いている。
「貴女は老境に入った {彼は 4 月 8 日で26歳である} 僕の誕生日を覚えていてくださってありがとう。わずかな人しか覚えていません……僕は「素人移民」を楽しく読みました。同じ著者で「大陸横断」とか言うのがありませんでしたかね?貴女がロバート・ルイス・スチヴンソンを僕に紹介してくださったのです。「引き潮」という作品が最初に読んだものとして覚えています。」
年間を通じて、自分の将来について考えている。彼の父親が一年間海外留学をさせると申し出ていたので、それを受け入れた場合に備えてヨーロッパで勉強中の数人の友人に手紙を書いて教授のことや課程などについて問い合わせている。彼はまたジョンス・ホプキンス病院に行くことも考えている。1895年(明治28年) 7 月早々、ネッドから手紙が来た:「僕はこの 3 週間あまりロッブにたびたび会っている。彼がホルステッドとジョンス・ホプキンスについて話すことには興味が持たれる。彼によればこの国にはホルステッド以上の外科医はいないという。無菌法は完璧だし彼の仕事は研究室サイドから臨床を含め手術までが科学的で人を啓発するものだということだ……彼は強く言う。君がM・G・Hでの仕事を終わったあと考えうる最高の場所だと……ジョンス・ホプキンスでの 1 年間は 5 年間の留学に匹敵すると。よく考えて見られたし。」
クッシングは休暇でクリーヴランドにいた間に、ネッドと二人で病院と医学校を見にボルチモアに出かけた。ジョンス・ホプキンス医学校はまだ揺籃期であったが教授団の卓絶した精神は急速にそれを優位の位置に押し上げていた。クッシングは働いているすべての人々の熱意が気に入り、最初に広く知られた内科学のウイリアム・オスラー教授のところへ申請した。発展がなかったので、今度は外科学教授ウイリアム・S・ホルステッドにアプローチした。数ヶ月に及ぶ折衝の末、ついに外科学のホルステッドの補助レジデントとして任命された。海外留学は当分延期となったのである。(つづく)
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