昨年12月31日の大晦日に、突如、父との別れが訪れた。父は大正生まれの92歳、年齢的には大往生と言ってよい年である。父は、88歳で胃癌が見出された。CEAの増加のために、検査した腹部エコーで肝のSOLを認め、PETにて胃体上部の集積像、そして胃内視鏡検査にて、BorrmannV型進行癌の診断が下った。兄と私と、子供 2 人が医師になりながら、親の胃癌の早期診断もできないのである。80歳を過ぎているとはいえ、胃内視鏡をすべきであったと深く後悔したが、躊躇もあった。父は私が学生時代の頃から、「死ぬことは怖くない」「癌で死んでもかまわない」と、常々言っていた。「いつまでも生きていると思いなや」というのが、最近の父の口癖であった。
心身医学の世界には、天寿癌という言葉があるが、しかし癌は、恐ろしいスピードで増殖してくることが少なくない。高齢とはいえ、父の肝転移巣は数週単位で倍増し、治療を決意せざるを得なくなった。主治医として、QOLだけは低下させないことを念頭に、抗癌剤投与を考慮することになった。TS-1、CDDP少量投与に加え、分子標的療法(ハーセプチン)を施行した。父の胃癌組織におけるHER 2 遺伝子の増幅、蛋白の増加が確認されたためである。肝転移巣は、プロトン照射で破壊した。しかし、現在の医学では、進行癌を根治することなど不可能である。EGFに対する分子標的療法や温熱療法、マイタケなどの補完・代替療法を試みたが、その効果は限定されるものでしかなかった。肝転移巣が見出されてから 4 年間という、ある意味では十分な経過であったかもしれないが、もう少し情報を集め、タイミングを見計らえば、まだまだ延命が可能だったのにと、自責の念に駆られている。
生前、父は病気のことを一切尋ねることもなく、また治療に関して一切口を挟むことはなかった。生きていたいという欲求はあったかもしれないが、実の子供であるとはいえ、主治医の指示を守るのは患者として当然であるという、古い時代の信念があったように思われる。父は無器用な人であると、母が時々愚痴をこぼしていたが、父の実直さ、潔癖さは母もよく承知していた。
兄は実家で開業しているが、この時ほどそのことを嬉しく思ったことはなかった。「在宅」で治療ができることと、クリニックから看護師さんが来てくれるからである。終末期医療の担い手は、主治医よりもむしろ看護師さんであると言われているが、本当にその通りであった。
その兄から急な呼び出しがあったのは、大晦日の日、大阪のある病院からであった。その日に搬送されたようで、ベッドに横たわり、もう二度と口を開くことのない父の姿がそこにあった。両親を相次いで癌でなくされた先輩から、何があっても両親には会いに帰るようにと常々言われていたが、忙しさにかまけて、父との語らいができる最後のチャンスを永遠に失ってしまった。病院の先生や看護師さん達に見送られながら、葬儀の車で病院をあとにしたが、病棟医長時代も含め、幾度となく患者さんや家族を見送った自分の姿が、走馬灯のように脳裏をよぎった。今度は逆になってしまったその立場に、何とも言えない複雑な感情を覚えざるを得なかった。
葬儀の会館で、「お通夜は夜を通すと書きます」とお坊さんがおっしゃった。大晦日の夜でもあり、最後は兄と 2 人きりで、父との別れを行ったが、大変貴重な時間であった。古くより行われてきたことであろうが、その意味が理解できたように思われた。兄は子供たちに、「次はお父さんの番やからね」と語っていたが、良い教育をしているものである。
夜更け頃、突然兄が驚いたように、花の香りが強くなったと私に話しかけてきた。確かにその通りであった。祭壇には、キク科の白い花々が飾られていたが、その香りが確かに強くなった。窓の外を見やると、夜が極く少ししらんじかけているに過ぎず、外はまだ暗闇のままであった。室内は明るい蛍光燈がこうこうと灯っているし、その極くわずかな明るさの違いを見分けることは、不可能であると思われた。切花であっても、時計遺伝子が作動しているのであろうか。我々のまわりには、多くの命が存在していることを、改めて思い知った。
ヒトをはじめすべての生物は、確実に年を重ねてゆく。老化遺伝子クロトーが話題となり、また寿命を延長させるほぼ唯一の手段である、カロリー制限に注目が集まっている。インスリン−IGF-1系を操作することにより、線虫の寿命を1.5倍にすることも可能である。ヒトの限界寿命は120歳と考えられている。その真偽は定かではないのかもしれないが、老化はきっと遺伝子のプログラムの中に、組み込まれていることであろう。仮に、そのマスタースイッチを見出したとしても、はたしてヒトは、寿命、若返りを自在に操ることができるようになるであろうか。クローン人間が誕生しても、自分とは異なった個体であるに違いない。遺伝因子と環境因子の相互作用こそが、そのヒトに特有な表現型(固体)を形成するからである。ちなみに、兄と私は一卵性双生児であり、言ってみればクローン人間である。さらに二人は同時代に、またほぼ同じ環境下に育ったのであり、類似点は極めて強いものがある。しかし、人間としては別物である。当然のことであろう。
限りある、また一度しかない人生であるならば、やはり楽しく夢を追いかけて生きてゆきたいものである。両親が長生きしてくれるということは、その中でかけがえのないことであり、いくつになっても両親からの助けを得て生きてきたことは、振り返ってみても確かである。父の存在は、母とは全く異なったものである。そのありがたさが本当に実感できるのは、自分の子供が大きくなってからであろう。父のように何も言わず、何も迷うことなく、生を終えることができるであろうか。父のように子供に無理強いをせず、自由に許してあげることができるであろうか。父のように長生きをして、子供達を支えてあげることができるであろうか。
夢を追いかける人生であっても、権力に執着することは絶対にありえない。権力者の哀れな末路をたどることなど、まっぴらである。医局の若い人を育て、その中から研究の、臨床の、そして人生の夢を頂こうと思う。父に何も聞くことができない今となっては、心の中でその姿を思い浮かべ、若い人達と相談しながら進んでゆくしかないであろう。父は、曲がったことの大嫌いな人間であった。
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