緑陰随筆特集
金 婚 式 雑 感
昭和31年1月24日(1956年)。この日は、若い二人を祝福するかのように鹿児島では実に珍しい小雪が、チラチラと舞うなか鹿児島市中央公民館での記念すべき結婚式の日であった。あの日から満50年の今年は、世にいう金婚式の年である。
来し方50年を振り返ってみると、実はさまざまなことが走馬燈のように脳裏をよぎるが、この半世紀を思い出すままに拙い文を綴ってみたい。
よく夫婦は、菱型のようなものだといわれる。「若いうちは、仲良く二人寄り添っているが、中年にもなると妻は子育てに夢中になり、夫は仕事に懸命になって互いに背を向け合う。しかし子育てが終り、やるだけの仕事をやり終えるとまた2人は寄り添って労り合うようになる。」と。
当時は、「新生活運動」の一端として結婚式は一般サラリーマンの多くが、この式場を利用していた。披露宴の焼酎も一人当りお銚子1本だけという約ツヅマやかなものだった。
この年に発表された経済白書による流行語としての「もはや戦後ではない」あの神武景気の始まった年でもあった。この時代の象徴的な作品として登場したのが、昭和7年生まれの石原慎太郎の「太陽の季節」である。確か芥川受賞作品だったと思う。
前年になるが(1955年)森永ヒ素ミルク事件で死者113人、患者1,155人を出した年でもあった。
昭和32年10月3日(1957年)長女誕生。この年は、国内外とも大きな事件、災害ともなく極めて平穏な年だったように思う。
昭和35年4月6日(1960年)長男誕生。この年は、いろいろと大きな出来事を思い出す。
まず国内では、日米安全保障条約の改定を花道に退陣した岸信介内閣のあとは、当時あの有名な「貧乏人は、麦を食え。」の発言で大きな批判を浴びた池田勇人内閣が出来上った。
「貧乏人」という階級差別的な表現が適当ではなかったのだろう。私は今でも「麦」がないと食が進まない。「麦」ほどおいしい主食はない。
流行した「ダッコちゃん」もこの昭和35年だった。そして外国では、チリ地震で大津波が発生し、北海道、三陸などで139人が死亡している。
当時、社会党の浅沼稲次郎委員長が、右翼の青年によって講演壇上で刺殺されるというあの酷い事件もこの年だった。私は米ノ津の「かぎん」に勤務していたが、その日は丁度渉外活動のため店外におり、お客さま宅で臨時ニュースのテレビ放映があった事を思い出す。
昭和43年3月14日(1968年)には、胃切除という思いがけない病気で入院生活を余儀なくさせられた。まだ若かった。「死んでたまるか」二人の子供はまだ小学校低学年、この子等が成人するまでは、キチンと教育してやらなければならないという社会的責任というか、親としての使命感がとても強かったように思う。それは、結婚式の祝辞の中で「これから先、社会人として、又親としての社会的責任をしっかり肝に銘じて、よい家庭を作って欲しい。」旨のありがたい言葉を、真摯に受けとめており、50年経った今でも心の中にしっかりと焼きついている。
3月末には退院し、4月いっぱい自宅療養ののち、5月1日から職場復帰し、満54歳まで休職することもなく元気で円満退職後、引きつづき第2の職場となる鹿児島市医師会職員として採用された。
健康の大切さは、胃切除以来嫌というほど味わった。何をするにもまず健康でなければ正しい判断は下せないと思う。そして平成5年3月(1993年)鹿児島市医師会職員を満60歳で停年退職し、4月より医療法人玉水会に採用され、満70歳になった平成15年3月(2003年)「ああ、本当に充実した職業人生を送ることが出来た。」と感慨を胸に元気で退職した。
健康に気を配って食事を作ってくれる妻には、感謝の気持ちでいっぱいだ。特に野菜、果物といろいろバランスを考えての事だろうが、「オレは、ニワトリじゃないぞ。」と言いたくなる位、野菜を摂らせるがバランスのとれた食事こそ、健康で仕事が出来た要因だと思っている。今は季節の野菜も豊富にあり、本当にありがたい時代である。
この50年、大病で倒れたのは、大黒柱の私だけで、病気知らずの妻をはじめとして家族皆元気であればこそと先祖に感謝している。
幸い長女、長男とも健康にも恵まれて成長し、それぞれよき伴侶を得、長女は私共の初孫となった女の子と、二人目の孫(女の子)を立派に育ててくれている。
長男は、女の子と男の子の二人の孫を現在教育中で、特に鶴丸高校2年の男の子には、期待が大きいようだ。
このような4人の孫の顔を見るたびに、生きがいを感じる昨今である。この孫たちが、真、善、美の心を大切に常に誠実で人生の王道を歩んで欲しいし、心身ともに健やかで真っすぐに生きてくれることを心から願っている。
さて、金婚式はどうなったのだろうか。実は、平成16年5月(2004年)に、私がまたまた今度は、呼吸器疾患の為に入院加療がはじまったのである。
今最も多い病気のトップにランクされている「肺癌」である。治療するしかないことは当然のことなのだが、さすがに、この降って湧ワいたような告知には驚いた。
「あと2年先は、二人の金婚式だね。」と妻と話し、子供、孫等もその日を楽しみにしていたわが家の行事なのだ。
ここでまた40年前の胃切除の時のことを思い出していた。「何とか克服したい。」いろいろ化学療法を続け、平成16年が終り平成17年の年が明けたが、「一進一退」というか、腫瘍マーカーの数値がなかなか思うように下ってくれない。そして平成18年が明けたのである。記念すべき1月24日には、次の入院が予定計画されていた。
それは、2月15日からは、「イレッサ」の服用のため約2週間の入院ということである。主治医から、それまではあまり外出等せず自宅静養との事であったが、食事は普通でかまわないし、晩酌も少量なら「オーケー」とのことであった。
東京の娘からの発案で、入院前の2月11日建国記念の日に、それぞれ家族の都合がよいという事で衆議一決、全員集合と相成ったのである。料理等の手配は、地元にいる長男の担当だったようで、私共二人のために好物の和食料理を応接台いっぱい準備しており、久し振りのわが家で夜おそくまで祝ってくれた。数年振りに集う家族の面々、家族の絆の強さをしみじみ感じながらアルコールも少しは「オーケー」との主治医の許可もあり、好きなお酒も痛飲し、この待望の宴会も無事おひらきとなった。
予定通り、2月15日入院し、CT等検査がはじまり、2月18日から「イレッサ」内服がスタートした。心配していた重篤な副作用もなく、経過良好との事で3月4日に退院となる。うれしくて、「ベートーベンの歓喜の歌」が頭の中に流れっぱなしだった。
現在月1回の外来通院によって、処方薬「イレッサ」を服用しながら自宅療養中であるが、通常の生活が可能なレベルにまで回復した。
この調子だと、60年の「ダイヤモンド婚」にも二人元気で美酒に酔うことが出来るかも知れない。本当に夢は尽きないものだ。
ラグビーフットボールではないが、「ロスタイム」もまだ充分あり、「ノーサイド」のホイッスルが鳴りひびくまでは、「ミラクル」が起きることを信じて、妻の助けを頼りにパソコンでも楽しみながら、一日一日を大切にすごしたいと思う。
(7月20日 前医療法人玉水会事務長)

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