緑陰随筆特集
因 縁 の 7 月
因縁浅からず、我が名面映ゆし,,,,,,,,,,,鹿児島市,,,,,、脇丸孝志。
タカシと言う平凡な名前を私に付けてくれた明治生れの父はヒトシ、母がサト。二人の間には、大正8年から昭和13年まで20年間に、規則正しく隔年ごとに8人の子供が授かった。末っ子は例外的に数年の隔たりがある。「等の子、俊夫と千代子、テル孝志、政夫に英吾、麗子俊博」つまり、頭から♂♀♀♂♂♂♀・・♂という次第。思わず微苦笑して仕舞う。と、どうやらタカシは、兄弟姉妹のど真ん中、芋の子洗うように多勢に揉まれ揉まれて育った按配だ。明治以来の国是、富国強兵、産めよ殖やせよその侭の見事な多産家系。ニ、シ、ロク、ハチ、トオ、・・とさぞや賑やかであったろう。上7人は幼時皆、祖母ヨシの背中が揺り篭で育つ。我が家昭和10年代前半頃の勢揃いは圧巻である。当時の不文律に何の疑いも持たず、「右へ倣え」で男は二中、女は一高女、末のみラサールへと全員進学する。横文字の読めない小卒だけの学歴ながら、ここ田舎町で誠実をモットーに付加価値をつけた零細商売に精出す傍ら、子供全員の勉学を、人生最上の喜びとした両親の生き様にはホトホト感服の極みで、心の底から畏敬の念を禁じ得ない。時代の相違を遥かに超えたエネルギーに圧倒される。とてもとてもその足許にも及びつかぬわが身の非力を痛感するばかり。この親の存命中に、孝行の志を具体的に実現出来なかった不肖の身が、何とも情けなく残念で悔やまれる。遅ればせの恩返しは、両親と次姉と最期を診取り、供養墓守をさせて頂いた事位であろう。翻って、星の生徒に憧れ、20歳を一期に特攻玉砕寸前の不肖タカシは、敗戦まで危機一髪の難を免れる事数知れず、全く僥倖にも無傷で真っ先に復員する事が出来た。が皮肉な事に、医師となり、本業に挺身すべき筈の長兄が、イの一番にサイパン島で玉砕しようとは何と言う運命の悪戯であろうか。後年、私は、亡兄の導きに従い医の路へ転進し、半世紀超もの間、第2第3の多少波乱の人生を味わってきた。決して敬虔な信者ではないが、偏にご先祖様の加護以外の何物でもないと信じて疑わぬ。今はただ、子や孫達の行く末までも見届けられたらと、叶わぬ夢を追って日めくり続行中の身。父母逝きてそれぞれ40、18年を閲し得た感慨無量。「親孝行したい時に親はなし」真に言い得て妙。精々、子や孫孝行でもするべいか。亡き連れ合いもそれで納得するだろう。「因縁の後日談」昭和19年7月末サイパン玉砕の報を知る、陸軍航士校在学中。戦後、戦死の公報、19年9月30日、白木の箱、中身は空、遺品ゼロ、出征時自宅に残したラウベルの解剖学原書と戦地からの軍事郵便数通が唯一の遺品。亡母死去と共に焼却。昭和41年11月26日、総理佐藤栄作当時、叙勲第662497号。兄貴の戦死は昭和19年7月末日と確信する。あの時、校庭で1人夜空に号泣した事ハッキリと覚えている。最後に豊田穣氏の「南十時星の墓標」を借用して結びとしたい。「南海の孤島で死んだ人達には墓石はない。しかし、その周りに広がる紺碧の太平洋こそが、その夜空に輝く南十字星こそが、墓標なのだ。昼は断雲が海面に列を作り、夜は南十字星が黄金の十字架をかざして、椰子の梢に静寂な光を投げる。それが無名の戦士達への、荘厳な夜毎の儀礼なのであろう。」合掌。平成18年7月、孝志満81歳、記。
昭和18年、夏休暇帰省時に自宅玄関前の勢揃いズラリ。
(別ワクが長兄俊夫、長姉 昭和13年病死。
長兄は真珠湾の勇士、横山少佐二中と同学年の筈。)

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