緑陰随筆特集
L i f e − L i n e
最近、TVや新聞で、ライフ・ラインという言葉をよく見たり聞いたりする。初めは何の事かよくわからなかったが、どうやら、電気、水、ガス、電話、上下水道、TVなどの生活に必要なラインを言っているのだなという事がわかってきた。
今年の梅雨は場所に依って大雨となり、ライフ・ラインがずたずたに切れた所が多かった。我が県でも北薩地方で大雨が降り、ライフ・ラインは途切れ、住居まで壊され、どうしようもない状態に追いこまれた人々が多かった。
8・6水害の時、鹿児島市でも、伊敷・天文館など今まで殆ど水に浸かったことのない町が、ひどい所では二階まで浸かって、殆どの品物が使えなくなったと聞いた。
水害の常連地と言われる新川沿い、稲荷川沿いは、8・6水害程の大雨でなくても水害を被る。三船地区は、それに加えて、山崩れ崖崩れまで起こり、尊い人命が失われる。
日本ばかりではない、中国、中南東の大水、地震、アメリカのハリケーンによる被害等、全世界で天然の大被害が起きている。
信心家に言わせれば、これらの現象は、「神」が(人間はいつまで争い事をしているか、早く和解して平和な地球をつくりなさい。)という戒めの言葉であるそうだ。
話しは昔へ返るが、昭和18年3月、旧制人吉中学校の入学試験を受けた。その時は、私は母の姉の家に下宿していた。両親は幼い弟妹と一緒にサハリンに住んでいた。母のすぐ下の妹(私の叔母)にクラスも一緒の従兄弟がいた。彼も人吉中を受験したが不合格だった。人吉中が危ない人は、人吉から20km球磨川へ沿って上がった農学校を受ける人もいた。彼が落ちたのは、父親が早く病死して、月謝( 2 円50銭)を払っていけるかという事が問題になり不合格になったらしいと誰かに聞いた。福岡県のある県立学校では、優秀な男子生徒が妾の子とわかって、合格取り消しになったそうだ。私達3人は、人吉の学校を受けるため17年8月サハリンから帰って来た。
昭和16年12月8日、太平洋戦争が始まった。18年3月は中学入試なので私の従兄弟とその姉との3人で、人吉中学、人吉女学校を受けるため、3人でサハリンから人吉へ帰って来たのだ。2人は祖母が留守する我が家へ帰り、私は前述の如く伯母の家へ下宿した。
前述の如く、従兄弟も従姉妹も経済的理由で不合格となった。私はなんとか合格したので、帰って来た甲斐があったと思った。
昭和20年に入ると、アメリカ軍は焼夷弾を使って小都市まで空爆するようになった。
父の満州転勤で、母と幼い弟妹は人吉へ帰って来た。8月には一家全員渡満する予定であった。街中の空き家を借りて住んだ。父の月給が120円で家賃が20円だったのでその高さに驚いた。
3月父が一度帰国した。渡満の打ち合わせなどあったのであろう。街中は危ないから山手へ移れという父の言葉で、街中から離れた山手に住む従兄弟の家の一間を借りて移り住んだ。私達中学3年生は、丘の横穴掘りに動員された。
8月15日は、家で待てと14日に先生に言われた。15日はよく晴れた暑い日で、山の峰に白い入道雲がもくもくと湧いていた。正午を過ぎると、あたりが騒々しくなった。何事だろうと道路に出てみると、近くに住む朝鮮人が「日本は戦争に敗けた。」と喚いている。(そんな馬鹿な)と私は思った。しかし2日遅れで届いた新聞を読むと、天皇陛下が15日正午、ラジオ放送で終戦を伝えられたとあった。神風は遂に吹かなかった。
9月迄は、1・2年生が作った甘藷の手入れや収穫で忙しかった。
10月になって、教科書を持って登校するようにとの連絡があった。クラス全員が集まるのは7ヵ月ぶりだった。初めの授業は、反米的な文章や、自由主義に反する言葉を墨で消す事だった。出征しておられた先生方も無事帰って来られ授業も順調に進みつつあった。
戦争も終わったし、そろそろ叔母の家を出なければと母と話している時、10月中旬の或る夜、従兄弟が「弘ちゃん一緒に行くばい。」と言う。「どけな。」と聞くと、「Iギネ病院たい。」と言った。何の用事だろうかと思ったので、「何しに行くとな。」と聞いた。彼は怒ったような声で「ベービー」と言った。病院へ着くと中の方へ入った。電気が明明と点いていて私達が来るのを待っていた様に思えた。従兄弟は事務所に呼ばれて中へ入った。私は廊下で待っていた。何やら書類に書きこまされているようだった。用事は10分ばかりで済んだ。帰りは二人共黙って急ぎ足で帰った。私には何のためあの病院へ行ったのかひとつも訳が判らなかった。
翌日、昼間、従兄弟が私達の部屋に来て、「弘ちゃん、一週間のうちにこの家ば出らんとならんばい。」と言った。「俺たちばっかりな?」と聞くと、「うんにゃ、俺たちもたい。」と言った。どうしてこんな事になったのか一向に分からない。一週間で貸家をみつけるのは難しい。従兄弟達は、伯母(母達の姉)が同情して、私が下宿していた時使っていた一間を貸してくれた。私達は、父からの送金も絶えて家を借りる金もない。
しかし助ける神が居た。従兄弟の家の5〜6軒先に母の遠戚に当たる叔母さんが娘と二人で住んで居て、「うちの小屋でよければ使って下さい。」と言って下さった。このあたりの家は、道路に面して家を建て、残りは細長く M 川まで続いていた。私達はその小屋を見に行った。(母、私、小6の妹、小1の弟、4歳の妹)3畳程の広さで、木箱が5個位置いてあった。雨露さえ凌げればいいやと、そこを借りることにした。
しかし移ってみて、ライフ・ラインが完全にcutされてるのに気づいた。
先ず困ったのが電灯である。日暮れと共に何も見えなくなる。昭和20年末、ローソクが売っていたかどうか覚えていないが、若し売っていたとすれば、ローソクを買って勉強すればよかったと思う。4歳の妹はどうしていたのだろうか。母が新聞配達に連れて行ったのか。小1の弟は午後は何をしていたのか。二人のことを考えると、学校で勉強して帰るわけには行かなかった。そして「水」。主家にポンプ式の井戸があったが、いちいち断わって汲みに行くのは面倒だった。それで水汲みは6年生の妹に頼んだ。
小屋は板敷で前から置いてある箱と、自分達の身の回り品を置くと、使えるのは二畳程であった。置けない大きな物は主家に置かせてもらった。
当時の人吉市は、電灯は各家庭に来ていたが(小屋には勿論なかった)、水道、下水道、ガスは無かった。電話は大きな商店が持っているくらいだった。昭和25年頃になるとプロパンガスが出てきたが、誰もが使える程安い物ではなかった。私達は日曜毎に山へ枯れ葉枯れ枝を拾いに行った。製材所で木の切れ端を売ってはいたが、それも買えなかった。
水道、水洗便所が出来たのは、昭和30年代の終り頃だったが、それまでは各家とも井戸水を汲み上げて使い、トイレは壷式落し便所だった。
私達は、水、トイレは主家のものを使わせてもらったが、完全にライフ・ラインcutだった。特に電灯無しには困った。夕方から翌朝までは全く暗闇であったので何も出来なかった。これでは学力が落ちるのではないかと心配した。それで、中間試験・学期末試験の前一週間を、妹は主家で(同級生の女の子がいた)私は2級下に人中生がいるM君の家で、夜8時から10時まで勉強させてもらった。
今、思い出しても恥ずかしいのと滑稽なのは、私のトイレの使い方だった。主家のトイレは戸外にあった。然しいちいち断わって使うのは面倒であった。小便は、隣りの畑にしたり、川へ降りて河原にしたりした。しかし大便はそういう訳には行かなかった。それで考えたあげく、小屋の中や周りに誰も居ない時に、洗面器に新聞を2枚敷いて、その中に垂れた。新聞紙を捩じって小屋の外に置き、夜になって川の流れの中に捨てに行った。10日程は何事もなかった。2週間位経って班長さんが訪ねて来られた。引場者の特配品でも届けに来て下さったかと思ったら、そうではなかった。「西橋さん、便を川に捨てるのは止めて下さい。」と言われた。私は(ばれたか)と思った。私は「はい止めます。弟でも捨てたのでしょう。」と言った。
翌日から、もっと遅い時間に、向う岸に近い流れの速い方へ行って便だけを流した。これは成功した。その後誰も何も言って来なかった。球磨川との合流点は深みになっていて鯉がいると言う話しだった。鯉は人糞を食べるとのことで、彼等が掃除してくれたのだろう。
掃除と言えば、小屋生活の間風呂に入った覚えがない。夏は川での水泳のついでに身体を洗っていたが、冬はお湯を沸かして小屋の中で身体を拭いていたのだろう。
昭和21年11月、母が新聞配達している田園地帯に一軒の空き屋を見つけて来た。沖縄の人々が沖縄へ帰ったので空いたのだそうだ。
早速母の友人からリアカーを借りて小屋から引越を始めた。ぼろな家だったが電灯がひとつあったのが嬉しかった。井戸は3軒共同で使うのだったが、トイレは戸外に3軒分作ってあった。これで水汲みもトイレ入りも気がねなく出来た。ライフ・ラインの一部が我々の手に戻って来たのだ。
私も弟も学校が近くなった。女学校へ進んだ妹は遠くなった。満州で生きているかどうかも分からぬ父―送金のない父―それなのに妹は女学校の入試に合格した。従兄弟達のことを考えると不思議だった。終戦の月から、父が帰って来て働くまで、月謝を払った記憶がない。恩典だったのだろうか。
1ヵ月後の昭和21年12月末、父と姉が満州から引き揚げて来た。これで生活も少しは楽になって来た。しかしライフ・ラインが全部揃ったのは昭和40年代に入ってからであった。
何故家を追い出されたかを、大人になってから従兄弟に聞かされた。

このサイトの文章、画像などを許可なく保存、転載する事を禁止します。
(C)Kagoshima City Medical Association 2009