緑陰随筆特集
鹿 児 島 中 央 駅 今 昔 物 語


中央区・中央支部
(鮫島病院) 鮫島  潤


 現在鹿児島中央駅の発展の凄まじさは眼を見張るものが有る。
 戦前にこれを想像したものが居ただろうか。私は幼い頃当時の西駅裏に住んでいた。家の隣りがK学園の本宅で同じ年頃の子供同志でカクレンボ遊びをしていて押入れに隠れている所に不意にかねがね非常に喧しい当主が帰ってこられて非常に慌てた想い出がある。
 昔は今の黒田踏み切りを渡って直ぐ左手に折れた所が階段状の棚田みたいになっていて中規模の養魚場になって沢山の金魚が育って居た。今ではホテルやタクシー会社が建ち並んでいる。
 当時西駅の裏手は鹿児島師範学校(今の鹿大教育学部)の非常に広い敷地だった。師範学校は七高、高等農林(鹿大農学部)、に次いで当時県内の最高学府とされ、とても威厳のあるものだった。

     


        写真1

 私が山下小の頃県下の小学校の作文コンクールがあり市内から選ばれて出席した事がある。その日(4月1日)校庭には桜が満開だったのに大量の雪が降ってとても寒かった。気象台で調べると当日は桜島が冠雪して居るが市内に雪が降ったという記録は残っていないそうだ。図書館で当時の新聞を調べても判らなかった。然し私の印象としてはっきり覚えている。
 校庭には昭和初期としては大規模なプールがあったり、とても広い敷地だった。当時の師範学校の西側門の向かい側に星塚敬愛の分園があり鹿屋から出て来た看護婦さんの一時の宿舎になったり、伊敷国立病院の分院だった時代も有る。あの一角から西駅に向って今のN泌尿科の駐車場一帯が師範学校の実験農場で非常にハイカラな温室があって植物園みたいだった。
 私が未だ小学校に入らぬ頃父は私達兄弟を連れて師範学校の長い石塀に沿って学校一周の散歩をするのが日課だった。全周すればやがて一里はあると言うもので子供にはとてもきつかった、それでも早朝静かな朝露を踏んでの郊外散歩はよい想い出だ。戦時中大規模の焼夷弾攻撃で学校が消失した跡地は鉄道管理局になって暫く営業して居たが何時の間にか無くなり今では新幹線は横切る、ゲートボール場はある、広い県有地があったり、貯金局事務センターがあり一時は鉄道病院があったこともある。あの当たり一帯が次々に分割され今日の様な学習塾、マンションなどのビル街になろうとは本当に感慨無量である。

     


               地 図

 昭和の始め頃今のみょうばん温泉の向かい側に私立の商工学校(名前は不明)があり夏の夜になると校庭に幕を張って星空の下に映画会(勿論白黒)をしていた。団扇をパタパタさせて群がる蚊を追いながら目は夢中で画面を見つめていたのが懐かしい。昔はそのあたりから今の城西通りに沿い小川が流れていて私が小さい頃曾祖母に連れられて小さな竹篭を下げて蓬よもぎ摘みに来るものだった。その流れが黒田踏み切りを通って高見橋の手前から深い大きな暗渠を潜って、いまの東急インホテル(昔は製氷会社だった)から甲突川に注いでいた。綺麗な川で水藻が繁り鰻、鯉、鮒などが多かった。しかし今では全部コンクリートで覆われ道路が広くなり車が足繁く行き交っている。
 (武駅)―(西駅)―(中央駅)はもともと広い田圃の中に東南を向いて建設されていたのが市勢の発展と共に昭和30年頃やっと駅の西側に通路が開けて今まで田舎だった武町方面が物凄く発展した。現在新幹線が通じてからの西口駐車場の広がりかたはどうだろう。八十年前あんな草深い田舎の駅で子供の頃は独楽回し、凧揚げに夢中だったがなあとその変遷に感慨無量である。

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