緑陰随筆特集
土 蜘 蛛
国分の岩戸の山中に、熊襲が眠っていると伝承されている小さな墓がある。
熊襲の墓と伝えられてはいるが、ある家の氏神様を祭る祠の脇に、雑木が生えている。その前にひっそりと二本の花入が置かれている。かつて、あるシャーマンの勧めで、小さな「お地蔵さん」をおいた。今では、その地蔵さんが地下に眠る人物の霊魂を鎮めているように思える。妙見に行くと「熊襲の穴」がある。
一方では、ヤマトタケルの熊襲征伐の物語を聞く。子供の頃から、なんとなく、憧れる物語であった。やがて、大和朝廷が地方を支配してゆく構図の中で、先祖の称かも知れない熊襲が大和朝廷に組み込まれる過程として納得していたが、一方では、「神武天皇御発航伝説地」がある。日向高屋神社の由緒には、このあたりを支配していた神武天皇が東征したので、土蜘蛛がはびこったと記録してある。それゆえに、土蜘蛛退治に景行天皇が、防府の佐波から出港して、海部より九州に上陸することになる。景行天皇の味方になれば、媛あるいは彦と称され、逆らえば、土蜘蛛と蔑称され、殺害された。許しを請うても殺害された。景行天皇の皇子、皇女に所領を配分するには、殺害せざるを得なかったのかもと妙に納得した。
その史跡が残されているから南九州は奥行きの深い面白い土地だ。その地に住む人間として歴史感覚が研ぎ澄まされると良いのだが。
私が育ったのが東襲山村という地名なので、子供心に熊襲と結びつけていた。都会に憧れる気持ちに、負の面を感じたころもあったが、今では、歴史の奥深さを感じている。
「日本書紀」によると、「襲国」とは、鹿児島県曽於郡西部、姶良郡東部、霧島国分地区を中心とする地域一帯を指している。
景行天皇はまつろわぬ土豪即ち土蜘蛛を退治にきた。
景行天皇はどのような人物かというと、第12代で、御名は大足彦忍代別尊(オオタラシヒコオシロワケ)、在位年数60年、年齢143歳で亡くなられ、天理市の山辺道上陵に祭られている、前方後円墳、渋谷向山古墳。九州各地を平定する。80人の皇子、皇女がいて、ヤマトタケルもその一人。
「日本書紀」に、「12年の秋7月に、熊襲反きて朝貢らず」と記録されている。この事実を受けて、巻向の都、日代宮を出発して筑紫に向かわれた。九州征討の前進基地は防府市佐波らしい。大分県の海部郡に上陸して、内陸部へ進軍した。
直入中臣神社 大分郡庄内町阿蘇野
景行天皇が土蜘蛛征伐の戦勝祈願をしたのは、3つの神がいる。その一つ、直入中臣神を祭る。境内に巨石の山があり、その一つをご神体とする。石明神とも言う。
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| 直入中臣神社 |
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石 明 神 |
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志加若宮神社 朝地町志加
土蜘蛛退治の戦勝祈願を3神に祈った。その1神、志賀神を祭ってあるのではないかと想像している。相応しい風格のある神社と思う。
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| 志加若宮神社 |
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志加若宮神社・花天井・蜘蛛の巣 |
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籾山八幡社 直入郡直入町社家
景行天皇が土蜘蛛征伐の戦勝祈願をした3神の一つ、直入物部神をまつる。景行天皇の腰掛の石が記念碑の上にのせてある。大ケヤキや杉の巨木が生い茂る。
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| 籾山八幡社 |
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籾山八幡社・腰掛の石 |
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籾山八幡社・大ケヤキ |
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宮処野神社 大分県直入郡久住
土蜘蛛(土豪)征伐のとき、軍議を重ねたところと伝承されている。嵯峨天皇を祭ってあるので、嵯峨宮神社とも言う。擬山陵あり。
城原八幡社 竹田市城原字米納
土蜘蛛征伐に苦戦していた天皇は、松原に引き返し、占いで、「水上にトう」という卦を得た。軍をたてなおし、再び進攻して勝利を得た。
松原に「景行天皇行宮蹟」の碑が建つ。
ついで、景行天皇を祭る神社が松原に建立されたが、神慮により一時期、現在の竹田駅近くの愛染堂に移された。再び、神のお告げにより、米納に移された。米納と松原は50mくらい離れている。
平安時代、国司豊後守石川朝臣宗継が八幡神をあわせ祭り、城原八幡とした。
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| 城原神社 |
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景行天皇行宮蹟 |
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稱疑野神社 竹田市菅生
祭神 景行天皇と建磐龍神外四神
大和朝廷に従属しない地方の豪族を土蜘蛛と蔑称して、景行天皇らが征伐に来た。このあたりは土蜘蛛・打、八田、国摩侶らの拠点であった。まつろわぬ人々を殺害するのを、景行天皇のご親征と称していた。付近には、鬼岩屋、土蜘蛛塚、血田などのご親征の遺跡が多い。古い地図には記録してあるが、確認は出来ない。
七ツ森古墳 竹田市戸上243
古くは7基の古墳があった。現在は、円墳2基、前方後円墳2基がある。4世紀中頃。前方後円墳は古い形式で柄鏡形式。柄の部分が細くなっている。
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| 七ツ森古墳群 |
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七ツ森古墳群 |
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さらに、「日本書紀」に次のように記録される。
「11月、日向国に至りて行宮をたててまします、是を高屋宮ともうす」
高屋神社 西都市岩爪
景行天皇は豊前の土蜘蛛を退治して、日向国子湯県に来た。天皇は現在の黒貫寺境内に高屋行宮を興し、宮殿の東に神殿をつくり、神々をまつり、6年間滞在して、周囲を平定し、火の国を経て、大和へ御還幸遊ばされた。
日陽山聖歓喜院黒貫寺 西都市岩爪2050
946年(天慶9年)開山。度重なる火災で寺宝は焼失した。古びた本堂、聖観音像は廣瀬の久峰観音から移した。景行天皇の高屋行宮所といわれる。
岩爪神社 西都市岩爪
その後、27年、再び熊襲が叛いた。景行天皇の子、日本武尊が熊襲征討下向の際、この地より紀州の大権現に対し、戦勝祈願をされた聖地といわれる。
景行天皇は西暦348年生まれ、368年立太子、371年が景行紀元年で393年に崩御。九州討伐は景行8年から19年とする西野凡夫の説が判りやすい。
参考文献 日本書紀、
古代天皇の系譜と紀年 西野凡夫著

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