第6章 途 半ばにして
第 3 学年 1893−94(明治26年―27年)
3 年生の始まりにクッシングはあまり課外の仕事に時間をとられずに、もっと忠実に講義に出席しようと考えた。しかし、いまや彼は病院の実地の患者をたくさん扱うようになっていたので、患者を診察することが許されている時間内に診察しようとすれば、やはり講義を休まなければならないことがわかった。
彼はまた病理学のウイリアム・T・カウンシルマン教授に課外の仕事をする機会を与えられて断りきれなかった。後に病理学で優秀な成績を取ったときにカウンシルマンが250ドルの奨学金を申し出た。クッシングは「授与するにふさわしい一人のクラス・メイト」に与えるよう」にと辞退し、父親には「僕よりもお金を必要としていると思われる人物なので、お父さんの寛大さに感謝します」と書いている。
この年、チャールズ街89番地にはクリーヴランド以来の親しい友人エイブラム・ガーフィールドとエール以来のクラスメイト、ジョージ・L・アマーマンがいた。ガーフィールドはマサチューセッツ工科大学で建築学の勉強をしていた。秋の間中、クッシングは多くの時間をアマ−マンの剖検の手伝いをして過ごした。と言うのはアマーマンが解剖学の学習が非常に遅れていて、退学の危機に脅かされていたのである。そんなことをしている間にあっという間に週日は過ぎてしまって、医学校で最も親しい仲間のエモリー・コッドマン(コッドマンは 1 学年年長であった)が 6 カ月の欧州留学に出発する日が近づいてきた。ブラウニー・クラブの名で知られる非公式の「クイズ」クラブがコッドマンの送別晩餐会を開いて、出席者はチャールズ・ペインター、エリオット・ジョスリン、チャールズ・ラッセル、ロウエル・パトナム、ヘンリー・ヒューズ、フランク・デニー、ジョージ・ドリヴァー、ナサニエル・ボウデイッチ・ポッターそれにH・T・ボールドウインであった。クッシングはそれぞれに途方もないプレゼントを持ってきて座を賑わせた−−すでに糖尿病に関心を持っていたエリオット・ジョスリンにはスイート・ピーのしおれきった花束を持ってきたのである。後年、彼はケイト・クロウエルを楽しませた「汝ら、慰めなきブロウニーよ」の絵を描いた。
ハーヴェーは自分自身はあまり書かなかったのに、ケイトにはもっと手紙を書くように小言を言った。あるとき、何も書かない白紙に彼女の手紙の一句を切り抜いて貼ったものを送った:「……わたしはすぐに返事します−−完全に珍しいことですが貴方はお分かりでしょう!」と。彼女の思いと注目とは嬉しかったけれども、彼は自分自身の感情を表現するのに大変慎重であった。彼女にクリーヴランドかボストンかで会ったあとの最初の手紙には、いつものようにすべてを非人称形で保持する決意からスリップして親しい口調になるのに、1〜2カ月経つとこのような冷静な手紙になってしまっている:「1893年11月19日日曜日午後11時45分親愛なるケティー、僕が貴女に手紙を書いてからかなり経ちました。今何時かお分かりでしょう。ぐっすり眠るために12時までしか書けません。それであまり多くを期待しないでください……」
彼はメアリー・グッドウィリーが教えているミス・ハージーの学校のダンス・パーティに参加したことを述べている。他の紳士はみな夜会服を着ているのに、ハーヴェー・クッシングはウールのシャツにツイードのスーツを着ていた。「しかし、そんなことは気になりません。ピアノの音が鳴り始めると老レプラ患者の心臓は早鐘を打ち、足は踏みとどまらず、メアリーと彼とは談笑していた事務所から飛び出し楽しいダンスに陽気に飛び込みました」彼はまた、ある午後メアリー・グッドウィリーと一緒にケンブリッジのガラスの花を見に行ったことやエールの友人たちと夕食を共にしたことを告げている。そうすることにして、「12時です、ケティーお休みなさい、ハーヴェー」で手紙を終わっている。
11月には初めて市民としての特権を行使した。しかし、「僕はボストン第 9 区役所の汚い部屋の汚い台帳に名前を登録しました。そして次の火曜日に最初の投票をすることになりますが、政治的なことに関心はありません」と母親に告げている。
クリスマスには家に帰ったがわずか 9 日しか滞在しなかった。1 月 2 日までにはアマーマンの新しい剖検のために帰ろうと考えたし、それに産科学の課外の仕事を引き受けようとしたからである。
彼はひどく働いたので、体重が減り、1 月には軽いグリッペの発作にかかった。このあと 2 月にはもっと重症な発作で数日間寝込んでしまった。父親は心配し、兄のネッドを短期間ボストンに寄越し、3 月 2 日に兄弟は小旅行のためハヴァナに向けて出航した。
ニュー・ヨークから、クッシングはケイト・クロウエル( 2 月中ボストンにいた)に彼女が身近にいたので、言わんとしたこと以上に話してしまって信頼に背いたと書いている。続く手紙では情熱を否定するようなことを述べて二人とも傷ついた。彼は寂しく旅立って、詫びながら彼女が彼にとってなくてはならぬ人であり、また同時にそうであってはならない人であることを告白している。
環境の変化はやがて彼を朗らかにした。見知らぬ場所にしばらく滞在することは、いつも彼を喜ばせ、刺激した。この旅にあたって日記に書いている:……われわれは今ちょうどメキシコ湾流に乗り込んでいて、海水の色調の変化がすばらしい……風は依然として北風で潮流に逆らって進んでいるので、少し揺れる……エドは「頭痛」のためベッドに入った。そしてクラッカーとレモン入りの飲料アポロナリスとが彼の病気の原因を明らかにした。というのは彼の胃の内容物でわれわれの船室はいっぱいになったからである−−「あんな小さなクラッカーひとつでこんなになるとは不思議だ。」と言った。僕には船酔いがこんなに笑いを誘うものとは理解できない。僕は同情するどころか大声で笑った。
ハヴァナでは、病院や刑務所、古いスペイン時代の城やマーケットなどを見てまわった。おいしいまた珍しい食べ物も食べたし、「特殊女性のいる場所−−ホテルのボーイが考えただけで身の毛のよだつ場所」で風呂に入ったり、ネッドが切手を集めている間にハーヴェーはスケッチした。オペラの後、ハーヴェーはナイフでアイスクリームを食べている幾人かの美しい女性に魅せられたが、闘牛は「残忍な出来事」といって嫌った。彼の芸術家の魂は滅び行く美を悲しんだ。「ド・アルマンダレス侯爵の古い田舎の宮殿、彼が40年前にスペインから若く美しい妻を伴って来て……そこで大勢の客をもてなし何年もの間華やかな歳月を過ごしたのだ……つい最近まで富と美を示していたものの荒廃の無残な絵画。」
休息と環境の変化とがハーヴェーの元気を取り戻させ、彼はまた熱心さを以って医学校に帰った。ケイト・クロウエルからの一通の手紙が待っていた。彼女は「忘れよと言われても、私は忘れることはできません」と書いて来た。
ハーヴェーはもう一年第 4 学年の課程を取るかどうかを決めなければならなかった。この時代までは医学校は 3 年までの要請であったが、要請が 4 年に延びてきたのである。追加学年の学科科目は編成中だったので、ハーヴェーのクラスで残るものは少なかった。しかしながら父親は 4 年目をやったほうが賢いとの意見であったので、最終的にアドバイスに従うことに決めた。ジョスリンとの競争は終わった−−「ジョスリンはわけなく首席になるでしょう。」
夏休みをどんなに有効に過ごすかという計画で、彼は 7 月にはマサチューセッツ総合病院の女性内科外来患者診察室で働くことを引き受けた(同時に小児病院でもいくらか働きながら)、8 月にはもう一箇所の外来で働くことを希望した。しかし、彼の計画は変更した。キューバから彼らが帰って間もなくネッドが重い腸チフスになった。ハーヴェーの兄への深い愛情は、遠くに離れているせいでますます強く、彼はたびたび家に手紙を書いた。彼は母親にたびたび手紙をくれるように要請し、ネッドがようやく危機を脱したという知らせに、ようやく安堵の胸をなでおろした。6 月になって、ネッドの回復には外洋の旅がいいのではないかとの、にわかな話が出たときには、彼はネッドとともに英国へ行くことに直ちに賛成した。6 月30日叔父叔母のエドワード・ウイリアムズ夫妻とともに出航した。
ロンドンから父親と母親に宛てて書いている。二人一緒に宛てた珍しい手紙のひとつである:
「僕は幾たび、ご両親が僕たちとご一緒だったらと願ったことか。ウエストミンスター、キュウ庭園(王立植物園)その他をご覧になってどんなに狂喜されたことか。やること見ること多すぎて圧倒的です……一度見たところはパスするようにしていますが、国立美術館と寺院は二度行きました。宿は大英博物館のすぐ筋向いです。だからあまり近いので却って一度も行かないでしまうかもしれないと心配です。しかし、エルジンの大理石(古代ギリシャの彫刻物)だけは是非見たいです。土曜日にはハイド・パークでケンブリッジ公爵が 2 −3,000人の近衛騎兵隊を閲兵しているのを見ました。赤い制服の長い行列が非常に印象的でした。
ウイリアムズ叔父さんたちは日曜日にパリに行って 2、3 日滞在すると決めました。僕たちは、雨のロンドンに泊まります。ロンドンでは誰も雨のことを気にしないのか、フロック・コートに「シルク・ハット」(まだ僕は被ったことはありませんが、被ってみたいです)といういでたちでまるで晴れた日であるかのように歩いています。……ここの雨はクリスマス・スカイのようには参りません。エドの表現によると、天に海綿があって、誰かが 2−3 分おきにやってきて絞っているのだそうです。」
彼の日記は電報文式に簡略になっているが、彼が見た細かいことすべてを記録している。「サッカレーと関連に富むチャーター・ハウスに行く……サッカレーが鼻をへし折った庭の隅を見た……エドがメイドをセント・ジェイムス公園に追い込んだが、鼻先で門扉を閉められてしまった。大いなる困惑のところをH・W・Cの物笑いとなる……」
ネッドは以前に 6 カ月ほどロンドンに滞在していたことがあるので、見物にもほどなく飽きてしまって、兄弟は「連峰地方」に出かけた。ダービシャイアのラットランド・アームスから毎日徒歩で遠足をした。ハーヴェーはロンドンを去るのは気が進まなかったのだが、たちまち田園地方の風景に溶け込んだ。それは「単に歴史的・浪漫的な伝承に満ちているだけでなく、また、ノルマンディ公ウイリアムがダービシャイアのこのあたり一帯を{山頂の彼}ペヴァレルに与えた時代よりもずっと古いものから集められた。」
兄弟はダービシャイアを心残りに思いながら去り、ロンドンへ帰った。4 頭立ての馬車で「オックスフォードの尖塔」への楽しい旅行の後、ロンドン・ホスピタルを訪ねた。そこでは二人とも大いに興味あるものを見出した。とうとう家に帰る出航の時間がやってきた。ハーヴェーは父親に今度の旅行は交通費464ドル、衣服費300ドル(オーバー・コート 2 着、夜会服 1 着、その他ズボン)、26日間のイングランド旅行164ドルがかかったと報告している。兄弟は 1−2 回「口論」したことがあったが、船が 8 月10日ニュー・ヨークに入港したときには最も友好的になって別れた。そしてクッシングは直ちにボストンの病院の任務に向かった。
第 4 学年1894−95(明治27−28年)
第 4 学年が始まる前にクッシングは 6 週間の外来患者部門での勤務をして、1 週間のクリーヴランドでの休暇をとった。外来では毎日朝 8 時半から午後 3 時半まで、骨折の処置をしたり、包帯交換をしたり、その他の仕事で忙しかった。その特別な日の午後 4 時、(大アメリカ紅茶会社で 1 杯のコーヒーに生卵を入れての昼食のあと)エリオット・ジョスリンと会った、そして「リツル・イタリア」近くの区域の回診に付き合った。この区域の貧しい暮らしの惨めさに慄然とさせられた。「わたしたちは10か12ばかりの病気の家族を診ました。−−父親、母親、哀れにもやせ細った子供たち、いろんな疾病のもの、急病で喘いでいるもの、その他です。できるだけのことをしてあげた人たちがそ知らぬ顔をし、何もしてあげられなかったか、原因を突き止められなかった人たちが「神の祝福を」とお礼を言うのです。尤も異なった社会階級でより知的層でも同じようなことがあります。」
日曜日には外来がクローズして、研究することもないので読書をすることができた。ジョン・フイスケの「人間の運命」を読み終えて、同じ著者の「神の概念」に取り掛かった。彼はまたその頃、一般にはまだ公開されていなかった新しいボストン公共図書館に関心を持ち始めた。クラスメイト、ネッド・ウイリアムズの妹が司書を知っていたので図書館内を案内してもらった。この機会のお礼に、彼女をチャールズ河のボート乗りに誘ったが、寒い夜であって乗らなかったことを喜んでいる「彼女の目方は200ポンド近いと思われたので。」
秋になって、ハーヴェーは従妹のメアリー・クリホアとその母親ルーシー叔母さんとを非公式に診療した。メアリーはコーネル大学で修士の学位をとるために勉強をやりすぎた。叔母は消化管のあちこちに起こって感じられる結石に悩まされていた。彼はしばしばボストン外からの訪問者を病院に案内したが、彼らの反応を家に書き送っている:「私はいつも人々が病院で抑うつされるのを見て少し驚きショックを受けています。慣れるということは人を無感覚にするのかもしれませんが、マサチューセッツ総合病院は本質的には明るいところです。」
課外の任務として、今度は整形外科学の教授エドワード・H・ブラッドフオードの仕事を引き受けた(彼は教科として臨床内科学、臨床外科学、法医学、外科手術学、細菌学、手術ならびに臨床産科学を取っていた)が再び過労のため倒れ、一度ならずネッドが迎えに来た。−−今度はバミューダで 2 週間半を過ごした。クッシングの日記(この頃、しっかりした習慣になっていた)には生き生きとした描写があり、彼独特のスペルが点在している。島には多数の若者が滞在していて、クッシング兄弟は第一のパーティーにも、もう一つのパーティーにも人気者であった。あるときハーヴェーは合衆国陸軍の大尉の隣に座った。そして、彼の「おしゃべり」の細君が「ロバを進ませる唯一の方法はブリキ缶の中で釘をガラガラ鳴らすか、熱いピンを突き刺すかです」と話してハーヴェーを笑わせた。
この種のチャーリーというロバに出会って実地の知識を作った。「わたしがこれを書いている間にエドとモーリー嬢とは 1 分間 1 マイルのスピードでハミルトンの側を通り抜けダッシュしました、ロバのチャスは耳を頭につけて帰ってきましたが、エドとM嬢は神妙な表情です。」
秋分の頃の嵐で、何もできない日があったが、かえってクッシングに一連の詩を書く余裕を与えた。「マーガレット・モーリー嬢は筆跡学者です。それで私の書いたものを求めました。気分がよくなかった(天気のせいで)ので、次のものを渡しました。
「百合と薔薇とのこの土地は
のりの効いた衣服には禁物です
雲が降らせる雨ならば
われら{フロッパー}のように
へたり込む
風が吹いてるそのときも
ほとんど同じくへたり込む」
休暇中一緒に遊んでいた少女たちの中の一人に休暇の終わりにボストンに帰ったら医学校の仕事が一杯あって、会うことはできないと告げた。
帰り道ニュー・ヨークに着くとホテルにエイブ・ガーフィールドからマサチューセッツ総合病院の採用試験に合格したことを知らせる手紙が来ていてクッシングはハッピーであった。これは1年間病院に住み込む必要のあるインターン生が始まる前に、学科の卒業の勉強をしながら 4 カ月間のエックスターン=「通勤」医員の生活を送れることを意味する。
4 月 2 日ジョン・ホーマンスの麻酔係りをしたときに、初めて彼とエモリー・コッドマンとが共同で作った手術中の体温と呼吸を記録するエーテル・チャートにサインした。これがクッシングの一般外科に対する初期の寄与である。
4 月中に、また、初めて、頭蓋の複雑骨折の患者に対する脳手術を目撃した。この経験を家への手紙には書いていないが、彼の注意深い病歴と引き続き患者が病院を退院し回復期病舎を去るまで自らフォローアップしている事実からみて強烈な関心を抱いたことが明らかである。
手術記録には「恐ろしいばかり」の硬膜静脈洞からの出血と記録したが、脳のいかなる手術でも最も重大な問題のひとつは−−出血のコントロールだと気づいた。
脳の手術を成功させるためにはまずこの問題を解決させるべきだとわかったのである。
4 月末にはエイブ・ガーフィールドに休暇をとるように説き伏せられてセイレムに行った。ガーフィールドは工科大学で科目としてセイレムの建築を勉強していた。クッシングはたちまちにして独特の建築の魅力に気づいた。
「それは確かに立派な昔の場所です。というより魅力的です。というのはその様式は繁栄の途中で発展と成長が突然止まってしまったが、古きセイレムは残り、もはや驚くべき東洋貿易の中心地ではなくなったけれども、荒廃したわけでもなく立派で、ちょうどビジネスをリタイアしたばかりの老紳士のようです。」
ボストンでの 4 年の間、クッシングは時折思い出したように教会に行った。偶には自ら進んで行ったがたいていは何らかの理由があった。最初はフィリップス・ブルック博士(博士は1893年明治26年死亡)に興味を抱きクラスメイトを誘ってその説教を聴きに行っていたこともあった。
イースターの音楽が彼をひきつけたこともあったが、もっとも多かったのは故郷クリーヴランドから訪ねてくる友人を案内してのことだった。あるとき、ケイト・クロウエルとメリー・グッドウィリーと一緒に「誇らかに」行ったが、聖体拝受の始まる前に二人を置き去りにして出てしまったこともあった。この春には叔母にあたるエドワード・ウイリアムズ夫人と従妹のレイとリーバとをキングス・チャペルに案内した。
「わたしたちの家族用祈祷席はロンドン・バスのように深いばかりでなく広くて座席で取り囲まれていました。わたしたちが 4 人だったお陰で後ろの座席に座らされて鈍重なボストン人がいっぱいいてじろじろ見つめられることなく済んでありがたいことでした。
わたしたちは「超一体論」の説教を聴きました。音楽は立派でした。礼拝が終わって出るときにやっとのこと床の途中にある鍵に到達してドアを開け、みんなを外に出してあげました。そんなことをしている間にわざわざエイブに借りてきたシルク・ハットの「けば」がすっかり擦り切れてしまいました。
空の空たるかな」
5 月の初旬に彼はウエヴァーリーの近くにあるマサッチューセッツ総合病院の回復期病舎での週 2−3 日の課外の仕事を始めた。続く 4 カ月というもの病院とウエヴァーリーとを行ったり来たりの生活であった。7 月には2以上の脳の手術に立ち会った。J・W・エリオット博士が脳手術の創始者ロンドンの外科医ヴィクター・ホースリーに会って1889年(明治22年)帰ってきたときに同僚に脳腫瘍の患者を診たら彼のところに送ってくれるように要請していたが、なかなか機会は訪れなかった。
しかしながら1894年(明治27年)6 月27日、31歳の男ジョン・マロニーが頭蓋の頭頂部に腫瘍を持って病院に入院してきた。彼は 3 年ほど前に頭部を打撲され、2 年後に損傷の部位に腫瘍が発生し始めたのであった。7 月 2 日エリオットが手術しクッシングが助手をした。
腫瘍は海綿状で色調は濃い紫色を呈し、おびただしい血流を受けていることを示した。この腫瘍はクッシングが後年髄膜腫と名づけたタイプであり、脳の髄膜から発生し、たまたま損傷の結果として起こり、通常近傍の頭蓋骨を侵す。クッシングが剖検報告をした。
第 2 例は 1 週間ほど過ぎたあとに現れた。ジョルダン・ハンターという名前の男の患者がひどい頭痛と右側の拇指と示指の麻痺で入院した。腫瘍の診断がなされ、エリオットが手術した。クッシングが助手をした。注意深く書かれたクッシングのノートに「エリオットが開頭に際し、これほど出血の少ない例はないという」患者は腫瘍が悪性のため死亡したが腫瘍の局在が術前に明らかに診断されたという満足があった。
ウエヴァーリーの任務中クッシングは回復期病舎の近くにあるM・G・Hの精神科部門マックリーン病院に通っていた。神経学への関心が鋭くなったのはここにおいてであった。仕事に没頭し、日々は早く打ちすぎて、荷造りをする時が来たのを信じられないくらいであった。チャールズ街89番地を去るのが心残りで−−「この小さな古ぼけたへこんだ前壁をもった屋根裏部屋にすっかりなじんでしまいました……荷造りはみんな終わりました−−4 年間にこんなにも溜まったものかと−−裸になった本棚それに壁、1フィートほどの高さになった荷造りの残骸が最後の夜を感じが悪いよりも懐かしくしています。自分の部屋に別れを告げるのは古靴に別れるように辛いです。この2つには共通点があるようです。」
彼が集めた「雑他物」の中に学科のノートがあったが、彼の医学教育の指標となったものである。彼の注意深く丹念に書かれたノートは級友の多くには読み辛いと言われながらも細かい字で書かれ見事な図が描いてあった。これは単に彼の関心を示すばかりでなく彼がこの頃から生涯守り通した仕事の仕方−−パターンを示すものであった。
病院の任務のために卒業式には出席できなかったが、優等生としてM. D.とA. M.の学位を受けた。ジョスリンとの競争は無益ではなかった。彼は母親にこの競争がこんなに辛いものだとわかっていたら「こんなことを始める勇気はなかったと思います」と告げている。(つづく)
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