随筆・その他
脳外科の父 ハーヴェー・クッシング
 外科医にして著述家であり美術家であった男の物語
                   [5]

                エリザベス・H・トンプソン 著

         西区・武岡支部
        (パールランド病院) 朝 倉 哲 彦 訳
 第5章 ハーヴァードの医学生
 1891年(明治24年)9月遅く、クッシングはハーヴァード医学校に入学するためにボストンへ旅立った。彼は夏休みを家族と一緒に過ごす間に彼の兄ネッドの歩む道を歩こうとの結論に到達した。その夏は彼の幼馴染と一緒の特別に楽しく賑やかな休暇であった。おそらくみんなが集まるのは最後の休暇となっただろう。彼は初めて特定の少女−−−カサリン・クロウエルに注意を払い始めた。彼女の夏の別荘ブリージー・バッフは若者たちが好んで集まる場所だった。愛称ケイトは朗らかで高潔で人気者であった。ハーヴェーにとって、単に美しいだけでなく、何かと気が合った。
 クッシングは数名の級友と共に、途中ニュー・ヘヴンに立ち寄った。中でもスターリング・チャイルヅスはハーヴァード法律学校に入学するのであった。ハーヴェーはチッテンデン教授とほかの友達とも会った。彼らに暖かく歓迎されたので、ボストンへの到着は、対照的にわびしかった。最初の、どちらかと言うと孤独な夜をトレモント・ハウスで過ごした彼は翌日部屋を探しに出かけた。しかし,「10マイルも歩き回り、1000フィートもの階段を昇ったり降りたりした」結果、ただその名前がたくさんで、彼の好まないタイプの下宿屋のおばさんの合成写真を得たに過ぎなかった。「こんなに、たくさんの人に、しかもまったく見知らぬ人に会ったことはありません。」
 それから、幸いなことに街路上で「鍵」クラブのメンバー、ヘンリー・セイジに出会った。彼はエール大学1889年(明治22年)卒業組でマサチューセッツ工科大学の学生であった。セイジの「かけがえのない」助けのお陰でビーコン・ヒルの西シーダー街32番地に落ち着いた。ランプを買い、机を買って、「ダフィという名の洗濯婆さん」を雇い、ボストンの地図を手に入れた。やがて、この地図を学んでボストン生まれの人のように地理に詳しくなった。
 エールでかかった以上に大学院の生活費がかかるのには一方ならず驚いた様子である。「医学書の何と高いことか!……医学書は立派です。とくにクエインの解剖書は美しいです。」しかし、学校の貸与用の残りの顕微鏡のクジに当たったので、運良く買わないで済んだ。また、幸いに教室の座席も確保できた。何百という学生(このクラスはそれでも少ないと言われた)に座らせるだけの椅子が十分になかったので遅く来た者は立っていなければならなかった。
 ケンブリッジでのハーヴァード上級生への講義のためにジョン・ウオレン(バンカー・ヒルから墜落死したジョゼフ・ウォーレン博士の弟)がロックスバリーの家から通っていたのはもう百年以上も昔のことであった。当時は天候が悪いときには河を渡るのが危険なので、7マイルも回り道をしなければならなかった。ハーヴァード医学校が始まったのは1783年(天明3年)彼が解剖学と外科学の教授に任命されたときであった。彼は医学校に名誉と威信をもたらした多くの著名な医師たちと教師たちの中の第一人者であった。彼らの中にはウオーレン自身の子孫がいる−−−ジョン・コリンズ・ウオーレン、ジョナサン・メースン、J・コリンズ;ジェイムズ・ジャクソン父子;ビーグロウ家;ボウヂッチ家−−ヘンリー・インガーソル、ヴィンセント・ヤードリー、それにヘンリー・ピッカーリング:そしてオリヴァー・ウエンデル・ホームズである。
 これらの人物のほとんどすべてが海外留学をし、ヨーロッパの大病院で学び教育を補完していた。そしてハーヴァード医学校は初めイングランドならびにスコットランド学派の−−−ロンドンのジョン・ハンター、チャールズ・ベル、アストレー・クーパーの、そしてエデインバラのジェームス・サイムやロバート・リストンの影響下にあると思えた−−−やがてフランスの特に医学統計学の創始者パリーのピエールC.A.ルイの影響を受けている。しかし、チャールズ・W・エリオットは1869年(明治2年)ハーヴァードの総長になったとき、文句のつけようのない教授団の威信にもかかわらず医学教育カリキュラムが時代遅れであるとして、遠大な計画のもとに大改革をもたらした。大学史の執筆者J・ロスロプ・モトレイは「われわれの新しい総長エリオットは全大学をまるでパン・ケーキのようにひっくり返してしまった。われわれの医学部にはかつてこんな激動はなかった。」と書いている。いわゆる「単位制」を採用し、学生をクラス毎に分けた。そして、実験用の生理学研究室を設置した。アメリカで初めてのことであり、学生が自分の実験が出来るようにしたのである。寄付金を増額し、1883年(明治16年)にはオイルストン街とエクスター街の角に新しい校舎が出来た。この建築物は当時としては大変広々と見えたが1891年(明治24年)にはもう手狭であった−−それほど入学登録者が増えたのである。
 西シーダー街32番地では下宿仲間がバラエティーに富んでいた。フロントの二部屋に住んでいる兄妹は音楽家であり、妹のほうがヴァイオリンのレッスンを始めようとしていることを知って、いささかびっくりした。「彼らは立派です。でも彼らが演奏せざるを得ないのに、演奏がうまくてよかったです。聞いていると無意識のうちに自分の体のあちこち、足や手、時には頭を動かしてしまうので、よい運動になります。階上にいる奴がバンジョウにあわせて校歌を歌うときには難しいですが、何とかなります。」
 この秋、彼はセイジとよく付き合った。一緒にフット・ボールの試合を見に行ったり、法律学校にいるエール出身の友人を訪問したり、時にはボストン交響楽団を聞きに行ったりした。母親への手紙に、初めての経験を書いている。「セイジのお陰で昨夜初めてボストン交響楽団を実地に聞きました。セイジは正規のメンバーなのですが、彼の席の隣にエキストラの切符を手に入れて、僕にくれました。すべて、大いに感激しました。特に最終の「英雄」の時には演奏中泣いたり笑ったりしました。」
 学科科目は結構忙しかった。しかし、彼が医学に強烈な関心を抱くに至った経験をしたのは11月半ばのことであった。それは解剖学の授業で剖検が始まる最初の日に起こった。彼は窓際のテーブルに割り当てられた。それはガス灯の時代としては特典であった。彼の最初の「部分」は右側の上肢であった。作業に集中するにつれて、部屋の残りの部分は背景に後退した。人体の完全像とその構造の錯雑とが彼を悩殺した。彼のメスを使う能力とデリケートな組織を扱う手つきとは本能的なものに思われた。エール大学でのささやかな経験から予期されるより遥かに大きなものであった。彼の能力は非常に顕著であったので、まもなく彼の級友や教師たちが2−3組に分かれて取り巻いた。この日は彼を仲間から引き離したばかりでなく、決して逃れられないものからの挑戦を受けたのである。このときから先、医学が彼の人生を満たしたのである。彼は彼の言葉で「レプラ患者」となり、社交から遠ざかってすべてを勉強に捧げる決心をした。
 すでに彼は彼のクラスメートを評価し、強力な競争相手を見極めた。エリオット・ジョスリン(エールの90年卒組)とC.L.ミックスとがクラスをリードすると考えた。一方、イーデス、ホワイトとペインターは「グッド・マン」としてマークし、クラスにたくさんいると父親に告げている。しかし、彼が競争相手と見定めたのはジョスリンであった。
 特別な友人となったE・エモリー・コッドマンは学期半ばに海外旅行をしたがベルリンからの手紙に書いている。「さて、ハーヴェーよ、古き友よ。君の手紙はまったく読めないよ。君が本当にジョスリンに打ち勝ちたいなら、その気になって奮起するんだね。それには女の子と遠ざかるんだね。そうでないと僕のように朝10時に起きることになるよ。君の徳行のご褒美として君の野心が成就するように。」
 しかし、医学における吸収が増大するにつれ、またジョスリンとの競争が激しくなるにもかかわらず、クッシングはあらゆる機会を見てはエールを再訪問している。ニュー・ヘヴンを去ってまだ日が浅かったので、汽車を降りただけで彼の心は軽くなり、彼のカレッジ時代の牧歌的な雰囲気に戻るのであった。11月の遅く、エール対ハーヴァードのフット・ボール試合を観に、エール=ハーヴァード法律学校グループの幾たりか、ヘンリー・セイジとドクター・チャールズ・スカダー(エール卒業生で兄ネッドの友人、解剖学の示説教師)と連れ立って出かけた。
 ハーヴェーは今では、父親にあまり気兼ねしないで、送金を依頼するようになった。カーク博士も最初のうちこそ注意と助言の手紙(ハーヴェーは『チェスターフィールド書簡』と名づけている)を書いていたが、次第に一人前の男の相手として、書き始めた。そしてあまり文句をつけないで送金するようになった。「送金の催促をせずに、一文無しになるまで待たせて済まなかった。非常に多くの催促を受け続けるので週も月も経ってしまうのだ」。
 3月になって、ケイト・クロウエルとメアリー・グッドウイリーがボストンを訪ねてきた。家への手紙に、ハーヴェーはそのことにあまり触れずに、非常に忙しくて女の子に会いに行くのに衣服を着替えるのがやっとだったと言いながら、ケイトが帰る際には駅まで見送って行き、話に夢中になり、そのまま発車しそうになった。彼は母親に、お金と暇があったらそのまま行ってしまいそうだったと白状している。
 4月には。かねてから彼とエモリー・コッドマンとは有望な学生としてマークされていたが、ボストン医学会会員に選ばれる栄誉をかち得た。春休みは課外の解剖実習をするためにボストンに残ったが,「青春を回復」するためにニュー・ヘヴンを短時日訪問した。
 季節の変化とともに、彼の手紙はボストンの花や樹木の喜びで満たされるようになって来た。どの手紙にも春の訪れについてと「尽きぬ喜び」と名づけたお気に入りのボストン庭園について何か書いてある。彼の庭園への関心はボストン滞在中ずっと持続しており、彼の級友のいくたりかと共有した。
 「心地よい夕方、ペインター、ホワイトとともに僕はいつも約半時間、庭園内を逍遥します。その時間は人影もまばらで特に快適なスポットとなります。驚くほど豊富な樹木の名前をあてっこして時を過ごします。僕はほとんどこのような木については知らないのですが、お父さんに教えていただいたお陰で知ったあの優美なキササゲの樹の名前を二人が知らなかったときには愉快でした。ホワイトは外国産の木をよく知っていますし、ペインターはニュー・イングランド地方の木を豊富に知っています。僕は彼らが知らないといい加減な名を借りてつけ、僕だけが知っているオハイオ州特有の植物だと言い張ります。」
 6月の試験期間のごく始まりに彼はニュー・ヘヴンに逃げ出した。「僕は土曜の夜が来るまでは、行く考えはまったく無かったのですが行ってみて本当によかったと思いました。ペリーが一緒だったら!僕は最後の仕上げのために今夜戻ります。」
 6月25日、彼が父親に宛てて書いている手紙の内容はたびたび繰り返されている−−−彼がエキストラの仕事(マサチューセッツ総合病院で数日間代診する)をする機会を得たので家に戻るのが遅れるけれども引き受けるほうがいいと考えたというのである。


第2学年(1892−1893)明治25−26年
 1892年(明治25年)秋、クッシングは医学校の第2学年に戻るや病院の病棟での臨床の仕事を始めた。19世紀の初期にハーヴァード医学校の数人の教授が患者の診療の面でも医学生の教育の面でも病院の必要性を認めていた。その結果、ニュー・イングランド地方における最初の本格的な大病院マサチューセッツ総合病院が1821年(文政4年)に建設された。ジェームス・ジャクソンとジョン・C・ウォーレン1世の努力に負うところが大きかった。設計はアメリカ建築界に影響を与えたボストンのチャールズ・バルフィンチで、中央にドームがあり簡素なドリア様式の柱でバルフィンチ独特の建築であった。
 このドームの中にある円形手術場で、アメリカのもっとも偉大な人類への貢献―無痛外科手術―が1846年(弘化2年)10月世界に紹介された。ボストンの歯科医で、エーテルの実験をしていたW・T・G・モートンが麻酔剤を投与している間にウォーレン博士自身が執刀手術を行った。この円形手術場では1世の孫ジェームス・コリンズ・ウォーレン2世が1869年(明治2年)にグラスゴウのジョセフ・リスターに学んだ無菌法による手術を紹介した。このウォーレンは医学校でアクチーヴに教えていたウォーレン家の4番目にあたり、いまやクッシングに外科学を教えていた。麻酔を導入したウォーレン博士の孫のウォーレン博士の患者にクッシングは麻酔をしばしばかけたのである。
 病棟で患者、疾病それに死に密に接し、ハーヴェー・クッシングは自分の仕事にますますの熱心さと集中力を以てアプローチするようになった。この年彼はチャールズ街89番地に引っ越した。同宿は大半工科大学の学生だった。「僕の部屋は最上階です。見晴らしは悪く、窓からは何も見えず電線の間からレンガが見えるだけで、正面の壁は円くなっており、いかにも屋根裏部屋ですが、昨年の住まいよりも住み心地はましです。」
 彼のプログラムは治療学、上級解剖学、病理解剖学(彼は好きになりたかった−「なんと言ってもすばらしい教師ホプキンスのカウンシルマン教授だから」それに内科学の理論と実地であった。(このためにオスラーの教科書を張り込んだが1ポンド約5ドルもしたと勘定している。)半分は興味から、半分は余分な知識が得られると言う安心感から、彼はチャールズ・スカダー博士の外来の助手の口を引き受けた。その任務は素晴らしかったが、正規の講義と重なるため勉強を保つには級友からノートを借りて書き写さなければならないという不便さがあった。
 彼は毎日非常に忙しかったので、たまたま病院を離れた時間にゆっくりするのを何より楽しんだ。週末は常にオープンで何か特別なことは細大漏らさず家への手紙に書き綴った。9月半ばに彼はヘンリー・セイジとアニスクアムを訪ねた。そして、グロウスターで船に乗りスクアム・ロックからの夕日を眺め秋色に輝く木々の沼沢地を歩き回った。彼らがグロウスターで汽車を降りるときにセイジにいたずらをされて、憤慨したが同時に面白がっている。
 「昨夜はセイジに見事にやられました。急いでいたので、数にして15人ばかりのよその人たちの前で(はっきりしないのですが百人足らずだったようにも思われます)車を乗り捨てました。この人たちはみんな私たちと同じ方向アニスクアムに向かっていました。やがてきれいな古い農家の庭先を通りました。そしてセイジが家の近くに生えていて、見たこともない白い実をつけた潅木を指差して「君は今までに中国産の梅ノ木をみたことがあるかい?」と言うのです。僕はとっさに非常に興味をだき、みんなもそれを見ているので尋ねました。「いいや、ない。僕らは入っていけるし、実は熟していると思うよ。」そこで木戸を開け木から手の長さくらいのところまで近寄って,「実」は若い梨の木の細い若枝に見事に置いた沢山の卵の殻であることに気づきました。セイジは腹を抱えて笑い、後から丘に登って来た人たちも一緒に笑いました。その「卵の木」はアニスクアムの人たちがいつもいたずらの種にしているものだそうです。僕はシャッポを脱いで降参するよりありませんでした。誰かほかの人に仇を取るまではあの梅ノ木のことは忘れないつもりです。」
 この秋、父親が自分用の顕微鏡を買うようにと送金してきたので、彼は非常に喜んだ。専用の顕微鏡があれば他の学生のことを心配せずに課外の勉強ができるからである。さらに、スカダー博士の助手をしながら、エモリー・コッドマンと一緒に解剖学教師のモリス・リチャードソン博士の代行として剖検の腕を磨く機会にも恵まれた。
 このような課外の仕事は興味と経験を加えたが、時間を食い、次第に成績が気になってきた。11月になって、彼は生理学のヘンリー・P・ボウヂッチ教授を訪ね「生理学」の点数を聞いた。「教授は尋ねられたことにうんざりした顔をしました {それに} 事務的なミスで87.5%のところが77.5%になっていることが分かってからは一層うんざりした顔をしました。どういう思いつきで行ったのか自分でもわかりませんが、行って調べてよかったと思いました。」
 彼の一週間は週の中ほどが非常に忙しく日曜日に近づくにつれ少しゆっくりなり、日曜日には息抜きをして、医者のこと以外の何かを考えるチャンスだった。それから、瞬く間に週の半ばが訪れて、また束の間を経て次のピークに差し掛かった。とはいうものの、日曜日にはペインター、ドリヴァー、コッドマンやほかの友人の幾たりかと論文を読んだり、空想上の損傷に対する包帯法を考えたり、糸結びをしたりに費やした。しかし、時にはこういう「息抜き」を勉強以外の何かに使うこともあった。かつて述べている:「ナサニエル・ホウソーンの魔法のペンにかかって今日の午後中かかって緋文字を読みました。今日で3回目です。昼食後、階下の机の上に置いてあったのを何気なくとって開いたのが運のツキでした。最後の10ページは行間に夕食をとったといってもいいでしょう。感動的な本です。」
 早期からの書籍に関する興味がかき立てられたのは古いアーチウェイ書店のような拾い読みのできる場所があったからで、ここでエール時代の友人「ウィント」ノイズにあった。「彼は探していたマックロウリーの英国史5巻を−−非常によい装丁で、紙質もよく、何よりもすばらしいことに1ドルで購入したと云っていました。」
 11月24日に母親への手紙に彼は優しく今度の休暇には家に帰れないかもしれないと断っている。「クリスマスに僕が何を欲しがっていると思いますか?ミンス・パイです。箱に詰めてチャールズ街89番地に送ってください。
 というのは絶対的に決めたわけではないが、このクリスマスは今の状態ですと、ここで送ることになるかもしれないのです、お母さん。」同じ日付で父親には12月中病院の外来患者棟で働くことを引き受けたので休暇は取れないとはっきり書いている。次の週、彼自身のささやかな外来患者診療のことを報告している。「僕はここチャールズ街89番地で一人患者を診ています。工科大学の学生です。彼は足に怪我をしています。僕はパップ剤を貼って、昨夜は早めに臥床させました。今日は具合が悪いです。でも、すばらしい職業です。」
 初めて家を離れて過ごすクリスマスもそれほど不幸なものではなかった。家から「ピアノほどもある」箱を送ってもらったし、チャールズ街89番地にはなお数名の仲間が残っていたからである。ゲイリー・N・カルキンズ、マサチューセッツ工科大学の「下等動物の教授で「バチルス」のニック・ネームの方が通りがいい人物、二人の工科大学生、それに下宿屋に診療所を構えているシア博士であった。
 元旦の日に、彼は外来の仕事を終わった後、父親に告白している。いったい人々に多少とも愛想よくお腹の具合はどんなですかと聞くこと以外に何を学んだのかわからないと。
 ともかく聴診器にも馴れてきて、罪もない人々のあちこちを象の鼻でつつきまわす感じはなくなってきた。この経験で彼が軽視していた薬物学にもいくらか関心が出てくることを望んだ。
 クリスマスのギフトにもらった小さな日記帳に日々の主要な出来事をかきつけるようになった。この方が手紙よりも彼の仕事を完璧に記録している−−−ここにはまた彼の父親や母親へ書き送った陽気な手紙には見られない懐疑や不確定性が表れている。「依然として毒物の研究をしている。自ら呑む事を瞑想する」それに「P博士は僕のことを不器用な愚鈍な人間と考えている」とか。1月10日に起きた事件は彼を深い絶望に突き落とした。本当に医学校を辞めるところだった。
 彼は級友の一人にマサチューセッツ総合病院での仕事を1週間肩代わりしてくれと頼まれた。仕事の一つは嵌頓ヘルニアで手術予定の女性患者にエーテル麻酔を施すことであった。彼は以前にほんの2−3回しかやったことはないし、エーテルの使用法を適切に教えられたこともなかったので神経質になっていた。実際、麻酔についての正規な指導はなかったので、ほかの人たちは患者が短時間に感覚を失うまでエーテルを与え、そのまま長時間保つのが常であった。
 その特別な朝、外科学教授チャールズ・B・ポーター博士の手術予定だった。医学校のほとんどの教授のように彼もたくさんの患者を抱え生計を保っていた。その日も手術を急いでいた。手術室に患者を入れるように呼ばれたので、クッシングは急いで麻酔をかけ、その女性患者の運搬車を入れた。ところがポーター博士が腹部を切開するや否や患者の息が途絶えてしまった。クッシングは肝を潰してしまった。あまりに大量のエーテルを与えて女性患者を死なせてしまったと考えた。彼は手術室を離れて病院の外へさまよい出た。午後一杯、ボストンの街を歩き回り、寒さはもちろん町のどこにいるのかさえ定かでなかった。ほんの数時間前まで一人の人間の生命が存在した−−それを自分の愚かな不手際で死なせてしまった生命。自分は医学校すなわち生命と死がしばしば医師の手にある職業を去らなければならない。なぜなら、ひとたび失敗を犯せば、また繰り返すであろうから。
 苦しさに紛れ、兄のことを思い出した。エドが医学校に在学したときに助けらるべき命を失うようなことがあったろうか?それに父親−−−このような経験をもっただろうか?にわかに父親を身近に感じ、父親を新しい視点で見るようになった−−−あのもの静かな物腰、自分や子供たちに対する峻厳さ、自分の職業に対する献身−−−そして父親の頼もしさと力強さが切に思い出された。それから祖父のイラスタスのことを考えた。父祖代々の故地を離れ、夜の往診から帰るときしばしば狼におそわれるような荒野に接して新生活を始める勇気を持った。そして、曽祖父のデービッドはどうであったか?ニュー・イングランドの散らばった家族を診察して回るのに雨の日も風の日も馬車で長い道のりを歩くときに懐疑や恐怖や不安に駆られることがあっただろうか?長い時間かけて作り上げられたパターンをハーヴェーが最初に破ることになるのか?
 夕方早くハーヴェーはポーター博士のお宅を訪ねた。自分は医学校を辞めて、患者の家族にできることなら何でもするつもりだと話した。ところが驚いたことには外科医が言うには女性患者はいずれ死ぬ状態にあったのだ。このようなことが起ることは稀ではないのだ今夜ゆっくり休んで起こったことすべてを忘れるようにとのアドバイスだった。
 しばらく時間が経ってみると、クッシングは医学の道を歩むことを決心して、しかも今まで以上に情熱的に仕事に取り組む決意をした。
 彼とエモリー・コッドマンとは手術中脈拍と呼吸を記録することによって患者を安全に保護する方法を研究し始めた。まず手始めに誰が最善の麻酔をかけるかの競争を始めた。夕食を賭けた。結果は病棟での患者の状態で決める−−−完璧な麻酔とは患者がナースとともに病棟に戻ったとき十分に覚醒しており嘔吐を来たさないことである。やがて、F・B・ハリントン博士の助言・示唆により二人は記録用のチャートを作成し,これはマサチューセッツ総合病院で採用された。これは手術中の患者の状態を記録する最初の試みであり、手術中あるいは術後の死亡数を減らすのに役立った重要なステップとなった。
 クッシングはその後も多くのスタッフのためにエーテルをかけ続けた。病院でやることもあれば、スタッフの開いている診療所で行うこともあった。1月13日金曜日の日記に:「コモンウエルズ大通り38番地にてポーター博士の嚢胞性水腫−−−A・K・ストーン助手。後、警察官に包帯法講習の手伝いを約した。」14日に「手術の多い日。エーテル麻酔はうまく行った。しかし、医局員とはそりが合わぬみたい。」16日に:「3−4回エーテルかけ、かなりまずい。夕方勉強できなかったので、早くやすむ。化学の試験が心配だ。」そして再び3月に「正午ポーター博士のためにエーテル係り。若い少女の頸部皮様嚢腫摘出。見事な手術。アレックスが来るまで助手をつとむ。」22日に:「シャタックが年老いた心気症患者に第十一戒−−−汝、苦しみを悩む勿れ、必要とあらば他のことすべてを忘れ去れ−−−を思い出すように告げた。」30日に:コッドマンと公園に外出。初めての駒鳥を見る。……警察官の包帯法講習。」
 この年の早くに、彼は友人のドリヴァーと一緒にある週末をグロウスターで過ごした。「僕は漁業事業所に非常に興味を持ちました」と父親に書いている。「ご存知のようにこの場所の頼みの綱と言われているように。僕たちは午前・午後ずっと、船小屋やガラクタ・ショップや波止場一帯をぶらつきました。
 今でも僕の髪の毛が海藻だらけで口の中が塩漬けのひらめが入っている感じです。なぜかというと燻製を作っている工場ではヴィジターに味見のおしゃぶり用に一切れくれるので、いやな顔をせずにしゃぶらなくてはならないのです。この習慣はいまや名前を忘れましたが有名なドイツの解剖学者の話のように思います。その人は剖検をしながら結合組織を噛むのが癖だったそうです。気味の悪い癖ですが面白い癖であると思います。」
 このような遠足の描写でも彼の芸術的感受性が次第に成熟してくるのがわかってくる。描画の才能は組織学と顕微鏡解剖学の実地に使われて、彼が顕微鏡で見たものは詳細にわたって、明白に彼のノートブックにこの上なく繊細に報告された。彼はその才能をまた、診た患者を忘れないようにスケッチすることによって臨床に用いた。急いで仕上げたこれらの小さな描画においてすら、患者の気分や状態のエッセンス−−−重症患者の忍従や心不全の水兵の努力(シェインーストーク)呼吸、異国において病に倒れた外国人の困惑などを見事に捉えている。
 彼が天与の才能を広く使うに連れ、芸術のすべての様式への感受性と関心が高まってきた。芸術展が始まり、彼を捉えた、そして1893年(明治26年)の初めころには3週間または4週間ごとに出かけた。1月にはシカゴでの世界博で出品されるはずのマサチューセッツ展へ2回出かけている−−−1回目はホプキンソン・スミスの「ヴェニスの夏の日々」とタイトルした水彩画展を観に、もう1回はラ・ファルジュのサモアと日本の絵を観に。3月にはペインターと彼はセント・ボトロフ・クラブの貸し画廊の絵を観にいった。「僕はミレーとかはよく知りませんが、メソニエが1枚、それにコローとカザンの数枚がよかったです。とくにカザンは僕には初めてでしたが素晴らしかったです。」
 彼はあらゆることに−−−油絵、エッチング、水彩画−−モダーン・アートにすら興味があった。彼は母親に尋ねている。「マックナイトの印象派の絵をご覧になったことがありますか?僕は昨年の冬、たくさん観ましたが急進的なものが大半でした。お尋ねする理由は僕が目に留めた次の詩行が僕を大いに楽しませたからです。
 「もしもあなたがスイート・ポテイトで
    わたしがドッジ・マックナイトなら
  わたしはあなたを七色に描きます
    生き生きと光り輝くように
  世間の人は言うでしょう、こりゃ
            「トマトだ」と
    べらぼうめ、そっくりだ
  もしもあなたがスイート・ポテイトで
    わたしがドッジ・マクナイトなら」

 4月7日に彼の祖父イラスタスが肺炎のため急逝した。母親と父親からの手紙に深く感動した−−−「孫たちに名誉ある名前を遺産として残してくださいました」と母親は書いている。祖父の死による悲しみと多彩な活動による過労を癒すために、クッシングは急遽グロスヴナー・アタバリー、いまや少年建築家の招待を受け入れてニュー・ヨークに彼を訪ねることにした。楽しい2日間を過ごしたが、ほとんど病院見学に費やした。「ルーズベルト病院の新しいサイム手術室「シムス」はすばらしいと思います。ほとんど化膿菌などいないと思います」と父親に書き送っている。
 5月にケイト・クロウエルがメアリー・グッドウイリーを訪ねてボストンにやって来た。
 ハーヴェーは家への手紙には少女たちに会う時間がほとんどなかったと書いているが、彼の日記には彼女らと一緒にデダムに行った(「美しい日−−カタクリの花」)とか、二人と「The Dove Lady」を読んで宵を過ごしたとか、またケイトに黒のシルクの傘を繕ってもらったとか書いている。ケイトが帰るころの日記には:「今日の午後はケイトと一緒に過ごす。予定したようにリバーサイドに行くには余りに寒く雨だった。ケイトは素敵な少女だが、あまり会わないほうがいいと思われる。今夜はウッドの講義。」、
 この月、運動不足のためユニオン・ボート・クラブに入会してチャールズ河で漕ぐことにした。長時間の勉強の後とか試験の前とかにしばしば息抜きのために通った。ボートクラブ入会と夏の初期に小児病院で働く機会を受け入れたことを知らせる手紙に、父親が答えている。
 「慣れないボート漕ぎで手がまめだらけになって同情できる。というのは自分も豚革(鞍というのは食用豚の外皮でできていることを君は知っているかどうかだが)へのなれない献身から荘厳なお勤めに座っていてできたまめやら痛みやらで苦しんだ事があるからだ。カーク博士は課外の臨床やほかの仕事を引き受けたことに、たとえ、点数が少々下がっても、ほかの点で代償されるといって賛成した。彼は結んだ。:「ジャック {ハーヴェーの犬} は十分気をつけたにもかかわらず、近頃素行がおさまらず、我が家の伝統に重大なショックを与えている。以上が君の母さんの分担範囲に属さないニュースだ。」
 7月中、小児病院で激しく働いたが、1回はプリマウスを訪ね、次回はジョスリンとウェルシー(いずれにしても非常に上級の女子カレッジに違いない)を訪ねる小旅行をし、それにある午後(これが初めてでその後数回)、ケンブリッジの有名なガラス製の花のブラシュカ・コレクション「想像しうるもっとも完璧なもの」を訪ねて息抜きをしている。
 彼は8月の初めに、残りの休暇と休養のためにクリーヴランドに帰った。しかし、日記では8月24日オーバリンの農家で行われた虫垂炎の手術の助手をしていることがわかる。そして、25日にはクリーヴランドのチャリチー・ホスピタルとレイクサイド・ホスピタルの両方の手術の麻酔係りを勤めている。ケイト・クロウエルの名前は彼の社交活動に関連してしばしば出てくる−−−「彼女については物笑いになるくらい−−−」と認めている。
 9月13日シカゴへ向けて発った。そして世界博のコロンビア館で兄のエドと1週間一緒に過ごした。世界各国からの展示を見て痛く感激した。女性の館にあった「日本上流婦人の化粧室」については名称だけの記述だが、英国のナースの展示については微細にわたり記述している。彼の日記は彼の目が捉えた事物や人物のたくさんのスケッチにまた彼の注意深い経費の用途の記録で賑わい、その中にあらゆるビール(時にbierとスペル)と「オレンジ・サイダー」のリストがあるかと思えば「クラッカーとホット・ボックス」13セント,「M」5セント,「W」1セントというような不可解なものもあった。バッファロー催し見物は1ドルだ。
 26日に彼は「ランチ・クラブにやってきたケイトと最後の散歩」と記録している。2日後にはボストンに帰り−−「僕のいつもの生活が戻ってきた。」
(つづく)

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