第3章 エールの息子
ルーム・メートになる予定のハーヴェー・クッシングとペリー・ハーヴェーは1887年(明治20年)9月18日にニュー・ヘヴンに着くと直ぐにヨーク街166番地(下宿屋で1950年 〔昭和25年〕 現在まだ建っている)に行き部屋の契約をした。ハーヴェーの興奮はクリーヴランドで汽車に乗って以来頂点に達した。同じ列車で東部にやって来た少年たちの大半は、すでに一年か、それ以上をエールで過ごしていた連中であった。コネチカット渓谷から移民してきたオハイオ州住民の子孫の子弟にとってエール大学を選ぶのは自然の成り行きであった。
新入生をどんなことが待ち構えているかについてのミステリアスな言葉、近く行われる予定のフット・ボールの試合シーズンについての論評の複雑な学生言葉、いろんな分野の教授陣についての親しげな腹蔵のないコメントなどを聞かされ、二人のエール新入生は強烈な印象を受けた。駅頭で先輩たちと別れたときには二人はいささか心細くなっていた。一生の間、新しい環境になじむのが苦手であったハーヴェーにとって、未知の場所へ来たので、不安でいらいらして来た。そのためエールの第一印象は明らかに失望的であった。
二人の部屋は3階で、小さな窓が二つきりであった。前面の壁は斜めになっていて、物を吊るすことが出来なかった。ちょうどペンキ塗り立てで、その「臭いがひどかった」。家主のミス・プレスコットは「膝くらいの背丈で、年は丘陵(若い丘陵)の年ほどで、非常に肥っていて、皺くちゃで、お世辞たらたらであった」。大学の校舎そのものが狭い街路沿いに商店や事務所などと入れ混じっていて、エールに来る途中見てきたウイリアムズ大学とは悲しいコントラストをなしていた。それに、ウイリアムズ大学では学生同士がお互いに知り合っているように見えたが、エールでは自分のクラスのメンバーすら知ることがないと言うことであった。
生活費が高いのも彼にとって厄介で驚きであった。家への第一信で「上品な」場所に入ってまずい食事に65セントも支払わなくてはならず、朝食に15セントもかかったとこぼしている。しかしながら、後刻、彼とペリーとは余分な出費を取り戻すことが出来た。ラッド教授の家に「お茶」に招かれて昼食と夕食の両方の分、十分に食べたのである。
クッシング夫人の従兄弟ラッド教授はクリーヴランド出身の学生の面倒をよく見た。特にハーヴェーとペリーはエール大学在学中とくに目をかけてもらった。彼の心理学ならびに倫理学の教授としての講義は、非常に退屈なもので、「大きな風の袋」であった。教授たちすべてがチャペルで行う説教のラッド教授の順番がくると、ハーヴェーはいやいやながら出席した。ある暖かい春の日に、町のオルガン弾きに50セントを支払ってラッド教授が「自意識のエゴ」について講義している窓の下でオルガンを奏しさせた上級生がいたがハーヴェーは彼に全面的に同感であった。しかし、「従兄弟のジョージ」としては我慢が出来た。特に彼の家への招待は通常食事を意味していたから。
1887年(明治20年)ころのエール大学の総長はテイモシー・ドワイトの孫、テイモシー・ドワイト2世であった。彼はエール大学の最初の化学の教授に若き弁護士ベンジャミン・シリマン22歳を選んだ。若きドワイト在任中に、エールはカレッジから総合大学へと変化の過程が始まったと言ってよい。学科選択制度、学位制度、総合試験制度や方法とカリキュラムの革新が形をとって始まった。
世界がスタートを切るのを促す時代であった。科学が一国の発展に果たす役割がいまやよく認められるようになったのはシリマンに負うところが多い。1802年(享和2年)に教授となって以来1864年(元治年間)の彼の死まで、彼の声は科学の重要性を主張し続けた。彼が発行していた「アメリカ科学雑誌」にはアメリカの科学成果の旧世界(欧州)への寄与と逆方向の成果をも掲載した。
1887年(明治20年)の秋にエール大学に入学した305人の学生のうち、100人までがシェフイールド科学学院を志望した。この学院の創設に当たってシリマンは器械の面で力を尽くした。創設当初は数名の大学院学生と2名の教授(無給で奉仕)であったのが、その存在と発展をしてわずか40年足らずで強力な教授団を持つ組織に育ってしまった。この学院の急速な発展と、米国で初めての科学の大学卒後レベルでの実務指針の提供とは、有用な研究を目指し、さらに訓練された科学者を必要とする時代への傾向を明らかに示している。
(註1:シェフイールドの卒業生にPh.Dの学位を贈って賞したのはエールがアメリカでは最初であった。)
しかし、ハーヴェー・クッシングが一年生のコースを始めたときにはエール大学予科の提供する古典的コースがまだ一般的な紳士としての教育に順当な道であると考えられていた。
ニュー・ヘヴンでの最初の日曜日に、ハーヴェーは彼の学生時代を通じて守り通した習慣をはじめた。それは毎週、父親と母親の両方に手紙を書くことであった。彼はしばしば、同じニュースを繰り返して書くところを見ると、両親がお互いに手紙を見せ合わないものと思っているようであった。時にはスケッチが同封してあったが、絵にタレント性があることを示すものであった。母親から定型的なヴィクトリア王朝時代の装飾用垂れ布が送られてきたときには、それを暖炉に適切にドレープしたさまを絵にして母親に送っている。
授業が始まると、一週に16回暗誦の時間があることがわかった。1回目は8時10分のチャペルでの礼拝の直後8時30分で、他は土曜日を除く毎日12時と5時であった。プログラムは幾何学、リヴィウス、ホメロス、キケロ、ドイツ語、代数学およびギリシャ語であった。
父親への手紙にあのいやらしい幾何学の教師ムーア先生以外はみんな好きだと述べているが、すぐに「いやらしい…」と言う言葉を使ったことを詫びている。
いまや、古典の世界には親しく歩み入るようになったが、彼は依然として、子供のときからの、いまわしい綴り字には悩まされていた。しかし、それは苦痛よりもむしろ楽しみを起こしていると思われた。あるとき、彼がpneumoniaを最初「pheeunemia」と書いて、それを消して「pneumonia」と書いたときに、母親は「お友達が病気でお気の毒ね……。pneumoniaと言う語で悩んだようですがアルフアベットの字が余計だったようですね。誰でも時に綴りがわからなくなったら、字引きを手元に持っているといいですよ。あなたかペリーか持っていますか?」
後刻ハーヴェーからの返事がコメントした。「私は、私がsuccmbedと綴ろうとしたことに始まるエール学生用語に関するお母さんの所説を大変面白く拝読しました。私は確かに綴り字が下手です。しかし、なぜ私が間違った綴りをするたびに学生用語を使っていると想像されるのでしょうか?succmbedと言う語を綴り間違ったのにどんなスラングを想像されましたか?」
当時のカレッジ・ライフでは初年生は上級生にもまれることになっており、各年級間もつかみ合いをする慣習があったが、ペリーもハーヴェーも引っかき傷ひとつなしにそれを切り抜けた。しかし、高い生活費が彼に不安を起こし続けた。書籍、家具、部屋代、賄い費、新聞代、それに購読しなければならない大学の出版物などなどそれにボート部の維持費、学内大舞踏会(Junior Prom)の費用などの思いがけない出費でお金がたやすく、なくなるのに度肝を抜かれた。
お金の請求をする毎に、父親が贅沢な暮らしをしているのではないかと想像するのを案じているのが明らかである。請求は頻繁であった。それは定額が与えられているのではなく、お金が必要なたびに手紙を書かなくてはならなかったからである。父親から明細を要求されたときのために、領収書は保存して置いた。エール・ニュース4.00ドル、エール・リコード1.50ドル、エール・リテラリイ・マガジン3.00ドル、ボート・クラブ10.00ドルと言った具合に。「ニュースとリテラリイはいい新聞ですが、リコードについては余りよいとは言えません」と書いている。
学内大舞踏会について、新入生は出席を許されていないのに、2枚も切符を買わされて馬鹿馬鹿しいと考えたけれども、自分の性格の強さがペリーに優っていることを父親に指摘している。ペリーは5枚も買わされたうえにボート部に25ドルも「ふんだくられ」ていると。舞踏会の夜は自分が出資した分を幾分でも取り戻そうとしてリフレシュメントのころを見計らって潜り込んだ。母親に書いている。「うまく行きましたよ。」
このような無駄な出費の穴埋めに、二人は安楽椅子の代わりに、ミス・プレスコットの教会から中古の長椅子を買った。これは確かにいい掘り出し物だと感じたが、ほかの学生たちがするようにのんびり寝そべれないのは残念だと母親にこぼしている。
次の問題は部屋のラグ(敷物)の件であった。母親への最初の手紙のひとつで報告している。「ぺリーの母親メリーおばさんがペリーに部屋の寸法を聞き、ラグをそれぞれ送ってくれるといって来ました。ミス・プレスコットが用意してくれたマットの場所にぴったりでしょう。」
それからおよそ10日が経った。手紙の往復する時間を入れても十分な時間をメアリーおばさんに与えたが、ハーヴェーは母親に書いている。「例のカーペットはまったく見当たりません。お父さんもメアリーおばさんも止めにしたのでしょうか?」。
この手紙にも返事がなかったので、翌週もこの問題に触れている。「それはそうと、送ってくださるはずのラグはどうなったのでしょうか?私たちの部屋のマットはぼろぼろになっており、部屋中のものがほこりだらけになっています。」今回は3週間待ったが依然としてラグは到着しなかったので、今度は強い調子で父親に書いた。「だいぶ前に話のあったラグは一体どうなっているのでしょうか?マットから舞い上がる埃で参っています。朝になるとすべてが埃をかぶっています。私の最後のインク壜にも入ってしまい、別なインクを買い換えなくてはならず、新しく買ったインクもまもなく駄目になるでしょう。朝ズボンをはくときには椅子の上に乗らなくてはなりません、床に触るとマットの埃がついてしまうのです。」
この手紙が効を奏した。彼の父親が、息子がインクを無駄に捨てるのを我慢できなかったのか、あるいはズボンを履くのに椅子の上に乗るさまを想像するのが耐えられなかったのかはわからないが、11月13日にはハーヴェーは母親に次のように書くことが出来た。「今週、私たちの部屋は大きな進歩を遂げました。ラグを敷くことが出来、どんなに喜んでいるか知ってもらいたいぐらいです。私たちは部屋で大部分の時間を過ごしています。階下の連中も元気付いて部屋をきれいにしました。」
ハーヴェーは物事を把握するのがペリーよりもかなり遅かったので、勉強をするのに時間がかかった。でも、この年の秋に2回ニュー・ヨークにフット・ボール試合の見物に出かけている。このような機会は、現代の学生生活ほど、恵まれていなかったので、ポロ・グラウンドでのエール対プリンストン戦は、ハーヴェーの初めてのニュー・ヨーク見物であるばかりでなく、また、初めての大学対抗試合観戦であった。彼が言うように「あの興奮を理解するには、大試合のひとつを実際に見るしかない」。
2回目の遠足の知らせが届いたときに、父親は、ハーヴェーが学業の道から幾分踏みはずしているのではないかと書いて送った。それに対する息子の返信での反駁と傷ついた仰天ぶりとは、厳格なカーク博士をすら面白がらせたに違いない。
「親愛なるお父さん、先週いただいたようなお手紙をいただくなんて残念でなりません。どのような理由で、私が勉強をしていないとまた勉強に忠実でなくなったとお考えになったのかわかりません。家にいたときにはよく勉強をしていたことはよくご存知のはずです。どうしてここエールではしていないとお考えでしょうか?よくわかりません。私をここエールに送ったことを後悔されたということを聞いて自分が原因であればまことにすみません。しかし、わたしが、ここで勉強をしないとご心配であれば、どこかほかの場所であってもそうだとなぜ思いませんか?私はニュー・ヨークには何もフット・ボール見物だけに出かけたのではありません。もちろん試合を見には行きましたが、トム・ヤングの家に感謝祭を過ごしに行ったのです。ニュー・ヘヴンに滞在した友人から聞いたのですが、ここでの興奮は祝い火や何かでニュー・ヨークなみあるいはそれ以上だったようです。お父さんもかつてはカレッジ・ライフを送られたはずです。大いに勉強をすべきですが、時には勉強をしないで済む場合があります。クラスには優秀な人材がたくさんいますので、私が第一組に入れるかどうかわかりません。しかし、一生懸命やっています。これ以上多くを言わないことを望みます。しかし、私は驚いた上に失望しました。……」
父親の不賛成にもかかわらず、ハーヴェーはカレッジ・スポーツに深い興味を抱き続けた。4年間の学生生活の間の陸上競技、フット・ボール、野球の試合のプログラムが二冊のスクラップ・ブックにぎっしり貼ってあり頻々と出かけたことがわかる。このスクラップ・ブックというのが、何でも保存するというクッシング家の家族特有の収集癖があったことを示している。プログラムにはきちんと切り抜いた新聞記事が添えられており、ボート・レースのあったソルトンストールとニュー・ヘヴン間の鉄道の切符があるかと思えば、フット・ボール試合で不運な見物人から切り取られたシャツの切れ端とか、エール大学野球部の名ピッチャー、アモス・アロンゾ・スタッグがショーツ姿で筋肉の出ている写真(後姿)とかが貼り付けてあった。
スクラップ・ブックにはスポーツ以外の事柄への関心もみられたが、あまり多くなかった。スポーツに次ぐものとしては社交に関するものが多く、新聞の切り抜き、晩餐会のプログラム、各種会合へのミステリアスな召喚状などであった。グリー・クラブやバンジョウ・クラブの演奏会にはいつも参加した。学年半ばの学園祭では正装組みにおり、その時には(2年生の警戒・妨害を押し切って)一年生がクラスの数々を示すのに成功した。はじめにバルコニーからカードの雨を降らせ、次いでステージの上に学年旗を吊り下げることにより、最後には脚に91年卒の旗を結びつけた伝書鳩の群れを放つことに成功した。
スクラップ・ブックにはそのほか、ウエスタン・リザーブ共和党員の会合についての記事、ハーヴァード大学生の道徳的ならびに知性的水準が悲しいかな低下したことの記事、ニュー・ヘヴンの市検事が、エール大学学生の部屋から187個ものガラス製看板を回収したなどの記事の切抜きがあった。最後に1887年(明治20年)12月の中間試験日程があり、それにこの試験で答案を書いた彼のペン先が縫い付けてあった。
クリーヴランドでのクリスマス休暇から帰って間もなく、ハーヴェーは、父親と母親のそれぞれから両親の性格を示す手紙を受け取った。父親はまず彼が第一の組に入ったことを祝福し、新しい食通クラブに入会するように告げ、お前のためになることならすべての費用を見ようと述べている。「しかし」と書き加えた。「長続きのしないことは出来るだけ止めることを期待する。聞くところによると、1学期の間に相当そんなことがあったとか」。
母親は彼に適当な運動をするよう注意し、なかなか治らない風邪について触れ、そして続けている:「ペリーとお前との間がうまく行っているよう望みます。私のかわいい息子に一言あります。気に障らないで。お前は人を口汚くののしる性癖があります。その点に注意してください。お前の母親がそのことを心配していることを忘れないように。『A word to the wise is sufficient口は禍の門(ほどの意味)』さようなら、愛しい息子よ、早く風邪が治るように、いつも愛している母親、ベッシー・M・クッシングより」
彼の母親の手紙は平穏で朗らかに続いた。しかし彼女の意志強固な夫と彼女の同じくらい意志強固な末っ子の間に二つのことについて意見の衝突があった。そのバトルは春学期中続いた。お互いの喧嘩別れを防いだのはまさに彼女の感化とユーモアのセンスによるものであった。
1888年(明治21年)の、あの有名な大吹雪(ニュー・ヘヴンが襲われたのは3月12日であった)の大騒ぎが静まったあと、春が訪れ、其れに伴って、2年生として入会する諸クラブと野球の問題が起こって来た。ハーヴェーは大学に入る際に父親とタバコを吸わないこと、お酒を飲まないこと、「不道徳なことをしないこと、球技クラブやボート部に入らない」と約束してきた。クリーブランドにいたときにはそれはやさしいことに見えたが、春になって、1年生が野球の練習を始めると競争心のそそのかせなしにはおれなくなった。彼は単に野球を好きなばかりでなく、ほかの人たちと彼のパワーとで、チームを作り試合をすることの興奮を望んだ。彼は2月に始めたが、この事実を手紙で父親には単に運動不足だからと報告している。そして、手始めに学生クラブに入会することから切り出している。
学生クラブに入会するのにはコンピテイシヨンがあった。と言うのは二つの2年生のクラブとほかに1年生と上級生のクラブがあって、200名近いクラスの中からわずか15名と言う選抜であった。春に選抜がなされたときには興奮が走った。「上級生のクラブ員候補者の公正な略歴を掲載するために」この時節に刊行される「ホロスコープ」誌はエール大学の学生クラブの永続性について、「われわれのクラブは母校の基盤に深く根を降ろしており、時折クラブ廃止の声を聞くが、それらは単純なばかげた主張であり、排除さるべきである。クラブの不都合な部面は廃止されるべきであるが、多くの面で月が欠けるより以前に総合大学 法人と教授団その多くがクラブ・メンバーである の統治精神が根本的変化を行うだろう。エールは抜きん出た秘密クラブの棲家である。」
「頭蓋と骨」クラブは1832年(天保3年)に創設され「その起源は非常に神秘的で半世紀を経た研究でもそのヴェールを外すことが出来ないくらいである」が「確かな」思慮深い人をメンバーに選んだ。一方、「巻物と鍵」クラブは思うに「ほがらかで人気のある」ひとを選んだ。申し分のない紳士であることに加えて鍵はまた「学者であり、筆が立ち、そして精力的に働く人」ならば一層よいと期待した。
クラブの窓のない大理石の壁の中でどんなことが行われているかハーヴェーは好奇心を示したが、彼以前にも多くの学生を魅了してきた。いろいろなクラブの閉鎖的で神秘的なすべての活動は彼の演劇的な感覚に強くアピールした。そして、入会したくてたまらなくなったので、父親に受け入れてもらえるように計算しつくした手紙を書いた。彼はこのことがかつて避けるように指摘された「贅沢」のひとつであることはよくわかっていた。
「私は借金をしないように気をつけています。付けで物を買ったことはありません。ほかに支払うべきものは知りません。洗濯物の請求書が来るたびに払うのが精一杯です。学生の中には請求書が溜まるので月末が来るのを怖がっているものがいます。」
このような書き出しのあと、彼は本論に入っている。「私は以前からお話したいと思っていることがあります。だが、いい理由が見つからないので、今までうまくお話できませんでした。」(彼はまだクラブ員として認められていなかった!)父親がクリーヴランド出身の年長者フランク・へリックを信用していることを知っていたので、ハーヴェーはへリックが2年生のクラブの一つのメンバーになることは大きな名誉だとアドバイスしたことを父親にほのめかした。(societyをsociatyとスペルしている)彼は最後にお父さんのお許しがあれば、提供された入会誓約を受け入れるつもりだと述べている。
カーク博士は、長い手紙でハーヴェーの手紙の本論ではなく、書き出しの部分に集中して応じた。そして、自分自身の問題を指摘することで自分の息子の同情をできる限り、得たいとしている:「この学期が終わると自分が息子たちの大学生活のために過ごした年数は23年になる。この期間中、毎月の仕送りを絶やしたことはない。これは決してたやすいことではなかった。自宅にいる家族のためにも経費をまかなわなければならず、税金や修理費、保険料も計上しなければならなかった。そして結んだ:どうぞ辞書を買いたまえ。そしてものを書くときにはそれを参照したまえ。毎度の手紙のほとんどにミス・スペルに気づく。最後の手紙で、たとえばお前sophomoreの「o」を省いており「sophmore」となっている。
そして、手紙の最後に重要なことを述べた。
「クラブのことについては何と言っていいかわからない。だが、フランク・へリックに相談したことはよかった……クラブの影響はいいか悪いかだ……人間というものはよほど優れていない限り、認められるのに時間がかかるものだ。優れた人は彼の性格が非常に早く認められる。クラブの問題についてはゆっくり考えなさい。そして、お前が最終的に決めた方でよい。」
6月にハーヴェーが便りするまでは何の質問も来なかった。
「お父さん、ずっと以前にお話した2年生のクラブのことについて覚えていらっしゃいますか?そう、何も疑いなく、自分の好きなようにするがいいとのことでしたので、僕は入会することにしました。先週の金曜日に宣誓しました。
入会金は35ドルですが、学期末まで払わなくてもいいのです……メンバーはみな男らしくて勉強家であらゆる点でナイス・ボーイたちです。今朝考えることでした、会員16人のうち10人が第1組であるのに対し、もうひとつのクラブでは第1組はたった2人です。二つのクラブの違いがわかります。僕の選択を喜んでくださると思います。
すでにハーヴェーが入会してしまっているので、どうすることも出来なかったが、父親は「しっかりとクラブ関係を調査して、どのようないいことづくめなのか知らないが、入会金がその価値よりも高いと思わなければ冷静に判断することと信ずる。君がクラブのクラスメートが非常にいい人たちであると言うので嬉しいことだ。クラブの名前くらい知らせなさい」と返信した。ハーヴェーは次の手紙で、問題にきっちりと結着をつけた。「僕は以前にお約束したように、入会する前に自分のクラブの友人たちをきっちりと調べました。どのようないいことづくめなのかとおっしゃいますが、入会金は僕が予期したよりも少ないのです」。
野球の問題はそんなに和協的には行かなかった。カーク博士はインター・カレッジ競技には、道義的に反対であった。彼はそのことを強め、競技に参加することに伴う興奮を嘆き、とくに選手に及ぼす影響を憂慮し、賭け事に消費される無駄なお金を嘆いた。ハーヴェーが父親に1年生ナインのショートをプレーするのに何か「重大な異存」はないかと尋ねたときに、無邪気にいかにも乞われているかのごとき印象を与えた。そして、1年生が禁止されている「エール大学の柵」(本来は大学の一番古い建物の周囲の手すり)に腰掛けることを野球でハーヴァード大学に勝つことによって、許してもらうことがいかに光栄であるかを強調した。柵は各学級の学生が暗誦の合間や夕食後に集まり、それぞれ、しゃべったり、歌ったりする場所になっていた。「それはどんなに出来うる限り以上のカレッジにおける社交の働きをなしていると思います」その柵はエールの学生はもちろん国中の同窓生の人生と思い出の生き生きした部分を占めており、新しい暗誦教室の建築のため、取り壊しが決まったときに全国から反対の声が上がったほどであった。
ハーヴェーの手紙に対する返信でドクター・カークはカレッジ・スポーツに関する自分の見解を繰り返し述べたが、プレーそのものを禁じはしなかった。しかしながら、ハーヴェーが野球チームと一緒にケンブリッジへ行くことを知ったときには怒りを抑え切れなかった。:「君の手紙に冷静に返事を書きたいと努めている。君がわれわれにもたらした不幸な事態について、私は怒っており邪魔されているが…………あたかもカレッジ生活の感傷と周囲の魅惑と興奮の中で、自分が第1組にいるなら、何をしてもいいと、利己的に理由付けをしているように思える……」これは図星であった。ハーヴェーはチームから抜け出る意図はなかった。と言うのはYの字を胸につけることは上級生のクラブに「飲み口をつける」最も確実な方法の一つであったから。
彼は父親に告げた。野球は大学全体の一般的な関心があり、野球部を止めることは自分を最も厄介な立場に追いこむことになると。カーク博士はニューヨーク・トリビュン紙がエール大学―プリンストン大学対抗戦を扱った記事で70人のプリンストン大学生が、経費のほかに1,000ドルものお金(大部分が賭け金の)をニュー・ヘヴンに残して行ったことを指摘して返信とした。「大学競技は急速に競馬や職業野球と相い並んでくるように見える。君がこのような渦の中に巻き込まれるのを見るのに忍びなく感ずることを判ってくれると思う」。
この手紙はハーヴェーをいたく憤慨させた。:「お父さんは多くの息子たちをカレッジに送っていらっしゃるから、カレッジの悪い点を含めて十分知っておられることはよく理解できます。しかし、カレッジについての新聞記事それもエール大学についての悪い記事をあまりに信じておられるように思います……しかし、僕がそんなこと(賭けごと)をするような人間ではないと信頼してくださることを望みます。もし信頼してくださらないのなら、僕はどうしていいかわかりません」。
父親はこの手紙に冷たく答えた。:「13日付けの君の手紙を受け取った。自分はいま御陳述のような君の意見には答えられないがお金だけは送る。必要だろうから」。かくてバトルはなおも続いた。
あるとき、エール・ニュース紙がエールの勝利の可能性について論評した。そしてチームの能力を客観的に評価した。「クッシングはポジシヨンとしてはなかなかの外野手である。しかし、しばしば暴投をし、周章狼狽する。」これにはハーヴェーもがっかりしたに違いない、しかし、ほかの分野では褒められた。春の室内競技大会で「平行棒の技はぬきんでてよく、まったくすばらしかった。91年卒組のクッシングはベスト・マンであることを示した」と報告されたのである。
ケンブリッジでの試合にはエール大学1年生のチームは敗れたが、ハーヴァード大学がニュー・ヘヴンに攻めてきたときには勝った。1年生が「柵」を克ち得たのである。母親は喜びを表明しさらに哲学的に加えた:「お前が『柵』を楽しんでいて、嬉しいことです。どうしても壊さなくてはならないなら、どこか代わって学生たちが集まれる場所を探さなくてはならないですね。骨董的魅力はないが新奇性の魅力ある、そのような場所を見つけるのがお前のクラスの運命なのでしょう……どんな偉大なことも、また、ささやかなことでも、ものにはすべて始まりを持たなくてはなりません。エール大学の中に、ほかに「柵」はないのですか?いずれにしても、その「柵」はそこに昔からあったわけではありません」。この反論に対してハーヴェーは答えなかった。こういうことを彼の母親が理解すると期待されるはずはなかった。彼は父親への電報「チュウコカグ コウニュウノタメ 30ドル デンシンカワセコウ」で1年生を終わった。
(つづく)
|