随筆・その他
鹿 児 島 空 港 の 淵 源
私が飛行場に興味を持つようになったのは、若い頃友人に日本航空の方がいて付き合いが続き、お蔭で欧米東南アジア各地の飛行場を見て廻ったことで、鹿児島と他所を比べる機会があってからである。
鴨池空港の源泉
昭和の始め私が小学生の頃、新川尻の白砂青松の中、丁度今の天保山中学校か給食センターの辺りにバラックの格納庫があり軍用機払い下げのフランス製でフロート付き双翼単発飛行機を保管してあって種子島出身の県議最上宏氏が島との連絡、遊覧に使用していた。しかし、いろいろの事情で実際に飛行したのは2〜3年で機体は県立工業に寄付されたという経緯を聞いて居た。元来鹿児島は飛行機パイロットに非常に縁の深い所で日本のパイロットの始まりは鹿児島からだと言える。以下にその概説を述べる。
明治43年日本で初めて代々木錬兵場に奈良原式飛行機が飛んだが、彼は生麦事件の奈良原繁の息子であった。民間パイロット第一号である。
大正3年第一次大戦の時、空から青島攻撃を敢行し成功を収めた。航空機が実戦に参加して実績を挙げたのが和田海軍大尉で彼は垂水出身の世界的画家和田栄作の弟であった。
陸軍所沢飛行隊の主任軍医は鹿児島出身の寺師義信である。
世界一周の「ニッポン号」の機長中尾純利も阿久根出身だ。そのほか幾多の先人が活躍して居た。
大正3年(桜島大爆発の年)鹿児島新聞社(今の南日本新聞社)が一万号発刊を記念して飛行大会を計画、広く県民に飛行機を見物させようと試みた。当時鹿児島の知名人玉利喜造高等農林校長(鹿大農学部)は「私は東京で飛行機の飛ぶのを見たが、将に流星の如く、見る見るうちに飛び去り、電車の軋む如き凄まじき音は今でも鼓膜に響いている」と前景気を煽つたので人気は益々高まって、大正3年10月10日、前夜祭としての提灯行列では天文館通りから新築中の山形屋の前を行進した。飛行当日は午前中で10万人(今では驚かないが当時は大変なことだった)当時1日400人前後しかない鹿児島駅の乗降客がその日は8,200人を超えるという超満員だった。
会場は鴨池の海岸で警察、軍隊の警護の中、10万の観衆が集まり物売りや余興の小屋も出るし孤児院では迷い児探しまで準備する始末。当日の飛行機は80馬力単発複葉のカーチス機。物凄い轟音で滑走、100mで離陸して二軒茶屋、荒田八幡、唐湊、紫原を廻り7分で鴨池の海岸に着陸した。10万の観衆は大喝采、その頃伊敷にあった四五連隊では飛行機に対して銃撃訓練まで施行したという。しかし、午後の最終回飛行の際にパイロットは着陸しようとしたが余りの大観衆の膨らみで着陸場所が狭くなり方向を変えた為、失速し近くの海浜院の松に墜落した。(海浜院は日本でも有数の規模の結核療養所で現在の平川日赤病院になる)機体はプロペラを壊しただけでパイロットは元気に這い出してきた。「観衆に怪我をさせるまいとした」という言葉が人の心を刺激して大会は大成功だった。飛行のデモンストレーションは日本でも珍しく九州では初めてだったそうだ。私の母が見学に行ってこの時の事をよく聞かせてくれた。
海 浜 院 碑
大正6年鹿児島の小川氏が飛行機で伊敷錬兵場に飛び落下傘降下の実演をしたが失敗して風に流されて梅ケ渕観音の木に引っ掛かったという失敗もある。
大正12年米国からスミス機が来航し鴨池に着陸した。この時、念の為スミス機の護衛に来ていたアメリカ海軍の救助艦が錦江湾に入港して居たが、一中(今の鶴丸高校)の生徒がこの艦にボートで漕ぎ付け、当時アメリカで起こっていた邦人移民排斥問題の抗議に行った。しかし、英語が全然通じなかったのに腹を立て、それでも柔道のデモンストレーションをやって人気を呼び、アメリカ海軍から土産をボート一杯貰って帰ったことがある。その豪傑は後に一中の英語の先生になられたが、私も一中時代にその先生に英語を教わった。気骨のある元気な先生だった。
大正14年イタリー機が天保山に不時着している、その他大正末期は飛行機による世界一周が流行し、イタリー、アルゼンチン、イギリス、ドイツ等から次々に飛来したが例外なく鹿児島を通り霞ヶ浦に行き、帰りは鹿児島から中国方面に飛んでいた。当時大正14年頃から海軍は鹿屋に海軍基地設営を進めていた。鹿屋市長永田良吉氏、後の国会議員二階堂進氏などがその運動に奔走している。
鹿児島海軍航空隊跡
新川尻に飛行場の誘致
この運動に刺激され鹿児島にも是非空港が必要ということで昭和7年鹿屋と競争する形で打ち合わせが始まり、やはり民間空港は県庁所在地、鉄道港湾施設の交通関係で鹿児島が有利ということになった。昭和8年空港建設候補として谷山小松原、新川尻、鴨池、吉野、紫原が挙がった。
昭和9年平瀬実武市議(後の市長)から空港建設促進の動議があり市議会議員が鹿屋で飛行機に試乗したりして事業に力を入れた。鹿児島の新川尻の鶴ケ崎に本格的に市営飛行場を造ることに決まった。
鴨池空港開設
はじめ、市としては5万坪で計画して居たが国としても鹿児島の重要性を考慮して経費は国で持つから25万坪にする様にと言われた。丁度、運輸省のその方の係りに鹿児島出身の人がいて市長も議員も仕事の手順を手際よくするのに非常に便宜を図って貰ったそうだ。そして大きな紡績工場(大日本紡績・製綿紡績所跡の石碑あり)や明治38年中江・加藤医師によって建設された広い敷地の結核療養所サナトリウム海浜院があり(その規模は日本有数であった、後の平川日赤病院)それらを含め、それ以上に海岸一帯を埋め立てるという飛行場を計画した。余談として敷地選定の為、鹿児島市議団が霞ヶ浦を視察して90万5千坪の広さに驚いたという。
紡 績 碑
工事は昭和13年に着工したが完成する寸前に飛行場は海軍航空隊に接収され、それ以来緊迫したスケジュールで真珠湾攻撃の血の滲むような猛訓練が行われ、紡績工場は予科錬に接収され今の新川べりのあたりに正門が設けられていた。施設内では予科練の2万人に及ぶ若人たちの想像以上の激しい訓練が行われたことはよく知られている。現在の天保山中の松林に海軍病院があった。今の県庁と医師会病院の間の直線道路が当時の滑走路だったが、南方の台湾沖、マリアナ方面で死闘を交えて来た戦闘機零戦や艦上爆撃機が四六時中頻繁に行き来して居た。後の神風特攻隊も此処から各基地に向って飛んで行ったという。軍歌に唄われた「月月火水木金金」そのもので、その訓練は非常に激しいものだった。飛行機事故もよくあった。綺麗に並んでいる飛行機の列に南方から帰還した飛行機が衝突して何機か炎上した例も見た。現在南国交通バスの車庫が当時の航空隊の格納庫だったが、あれほど激しい南方との往復に際して機材の点検、部品の交換をこんな小さな所でよくも出来たものだ、また辛抱したものだとつくづく感心する。
航空隊病院跡
航空隊格納庫跡(南国バス車庫)
終戦後の変化
昭和20年に敗戦となり空港は一時米軍の管轄になった。跡地は競馬場と住宅街三和町、真砂町・郡元町とか戦災孤児収容施設(仁風寮)または開墾して畑などに使われたが滑走路の脇で畑を耕す、布団が干してある、その周りで雲雀が舞うなど、のどかな風景だった。
昭和24年ごろから米軍の管轄を離れたので再び、空港復活の必要の声があがった。県当局も国(運輸省)も鹿児島は空の国際交通の拠点と言う考えがあって空港造成には非常に乗り気だった。しかし、周辺の住民の反対が凄く戦争中の空爆の恐怖、軍隊再起の懸念、騒音、土地移転問題で争われた。しかし、市当局は既に空港造成を予定し天保山や観光道路も造ってある等と住民を宥めて何とか鴨池空港は完成した。
鹿児島空港開港
昭和32年7月新鴨池空港が完成した。そして東京、大阪、福岡及び種子島、屋久島、大島の離島方面の空航路で発足した。空港開設式及び初飛行の時は自衛隊から60機その他ジェット機、ヘリコプター等が飛来して航空ページェントで景気を添えたものだ。空港出発の1番機はダグラスDC3で機長・シュツワーデスは共に鹿児島出身、しかも飛行機は「薩摩号」と命名され縁起を担いだのか78歳のおじいさんは紋付袴で初乗り、同乗した児童団が大阪に鹿児島特産の「薩摩鶏」を土産にするという念の入れ様だった。
当時は便数も乗客も少なく乗客はエリートクラスが多く新聞に乗客の名前が載るものだった。空港事務所は今ではハルタ・マーケットになっているが、待合室はマーケット売店で改札口は駐車場側の出入り口だった。改札を出ると客の体重と荷物の重さを量ってから搭乗していた、今では考えられない滑稽な風景だった。その理由は当時滑走路が550m×30mと短かったし、前に体育館の建築物がありNHKの高いアンテナが邪魔になつたので、飛行機が安全な高度を取れないという制限があった。従って油を減らして離陸し宮崎で補給してから羽田に飛んでいた。事実YS11がオーバーランして競技場側の川に転落したことがある。丁度乗客の居ない時で、パイロットは何事もなかったように機の窓から這い出してきたが思えば呑気な話しであった、危険なこともしていたものだとヒヤリとする。しかし、滑走路が1,600m×45mに延長されてから体重測定という体裁の悪さは無くなった。正式にジェット機が飛び立つ時、今までプロペラ機に慣れていた我々はそのズシンと腹に響く凄い音に吃驚したものだった。
私がセスナで離陸して陸上競技場上空で反転するとき錦江湾に飛行機の陰が海の底まで届いてとても綺麗だった。それほど海も空も澄み切っていた、今の錦江湾は濁っている。東京に行くとき乗った飛行機は翼が機体の上についてエンジンが窓の直ぐ前にあり、以前はオランダで遊覧飛行機に使用していたそうだったが、室戸岬の上空でエンジンナセルの間から油が漏れて長く黒い帯を引いていたことがあった。しかし、今更言っても始まらない。どうせプロペラ機だし何処かに不時着するだろうと考えていたこともあった。
蒲生へ移転の経緯
鹿児島の空港は幹線空路と離島空路を持ち、利用便も全国に誇る多さで地方空港としては保安設備も非常に充実しているし、はじめ、昭和33年は3,000人前後の利用者が昭和49年には149万6千人(全国5位)となり主要空港として拡張が必要となった。日本経済も高度成長期を迎え空港を拡張して自由に諸外国に行ける必要に迫られて、空港自体を移転する動議が出された。
県としては昭和35年頃に吹上浜、知覧、横井原、鹿屋などを候補地に考えていたが、十三塚原が住民の理解が得られ、即ち反対運動が少なく、土地買収、騒音問題も解決し、南北方向の恒風に滑走路が取れて将来4,000mの滑走路延長の可能性がある。鹿児島に近いことで蒲生十三塚原に決まり昭和43年県議会でも承認された。鴨池空港と蒲生の空港は県と国の交換と言う形で仕事がし易かったそうだ。
昭和45年3月に着工し、昼夜兼行の突貫工事で昭和47年には本体が完成した。以後ターミナル、格納庫、保安無線設備、気象施設工事も完成、2,000台の駐車場を含んで航空時代に対応した近代設備を具えて着工後2年で国内外幹線、離島交通として完成したのである。地方空港から主要空港に格上げされ、トリプルトラッキング(同時に3社介入)も実施された。
鎌田知事の頃から思案であった国際空路も開発された。昭和34年鹿児島―ナウルが全国で初めて就航し、グアム、ポートモレスビー、シンガポール、バンコク、釜山、上海線が出来たが間もなく消えたのは残念だ。それをチャーター便で補っているがこれも世界各地に飛び、私もカナダのカルガリーまで直通往復したことがある。成田、関西の出航手続き、税関、検疫の煩雑さを考えるとぜひ国際線鹿児島空港発着がもう少し延びないものかと考える。
鹿児島空港は昔は有名人の利用から現在は下駄履き着物姿でも乗り込んで来るほど庶民的になった。大正の末、当時の中川知事が「鹿児島に国際空港の必要」を唱えたが現在では空港整備法第一条により鹿児島空港は正式には未だ国際空港とは呼べない。早くその日が来る事を期待したい。それには鹿児島市との交通の利便性を今ひとつ改善することが必要だろう。

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