第2章 若枝が曲れるが如くに
ハーヴェー・ウイリアム・クッシング:ヘンリー・カークとベッチィ・マリアの10番目で末っ子は1869年(明治2年)4月8日に生まれた。彼は一人の姉、兄弟たち、大勢の従兄弟に囲まれて(同時に薫陶を受けて)幸福な安全な小児期を送った。彼らの大きな居心地のよい家は市街地にあったが、裏庭が十分に広かったので、納屋に馬を飼うことが出来て、鳩や猫や犬を飼う小屋もあった。さらに母親の庭園、鶏小屋、クロケット遊びのセット、果樹に加えペット動物の墓の場所まであった。
各季節には、それぞれにふさわしい楽しみがあった。春は家の前のノルウェー樺に最初のきつつきをもたらし、庭園に最初のスミレの馥郁さをもたらした。野球やこま遊びを楽しめるようになり納屋では子猫が生まれて新しい家族が増えた。夏には家族連れ立って郊外へピクニックに出かけたり、ほこり道を通ってエリー湖で泳いだり、クロケット遊びをしたり、隣家のさくらんぼをちぎって騒いだりした。秋にはクッシング家の少年たちは、学校が引けた後、自家製の凧を揚げ、冬には(誰かの家の裏庭に水を撒いて凍らせたリンクで)スケートをしたり、橇に乗ったり、雪合戦をしたりした。雨の日には屋根裏部屋で長い時間、切手、コイン、蝶々、小鳥の卵などのコレクションを楽しんだ。
だが、毎日を怠けて野放図に暮らしていたわけではない。母親の花畑を手伝い、父親の春の雑役を務めたりした。芝生を刈り、径を掃き、雪を掻いた。そして、年に2回の大掃除−−−耳の後ろを洗うのと同じくらい嫌いな仕事を手伝った。ほかにも、また責務があった。食事、学校、日曜学校での時間は厳しく守らなければならなかった。食前のお祈りから逃げ出すと父親か母親のいずれかに罰としてぴしゃりと叩かれた。ドクター・カークは膝に乗せて仕置きをしないときには開いた掌を叩くのにヘア・ブラシを使うことがあった。ハーヴェーの思い出の中で母親による最後のお仕置きを受けたのは彼が隠れて10セントで買ってきたスリラー小説を読んでいたのを抵抗すべくもなく見つかったときだった。西部の無法者が数々の無法な犯行をするにもかかわらず女性だけには常に親切であったという物語であった。
ハーヴェーの幼いころの思い出は、就寝時のお祈りをした後、眠りに落ちるまでの間、母が読んでくれた物語や繰り返してくれた詩であった。
ハーヴェーが特に仲良くしたのは兄のアレインと従兄弟のペリー・ハーヴェーであった。パリーは、クレホア、ウイリアムス、デイ、ハーヴェー4家の従兄弟たちの中でもっとも年が近かった。ペリーはまたの名を「トット」と言い、4人兄弟の長男で、いつも変わらぬ遊び相手で適当な刺激を与えた。アレインを除けばほかの兄弟は遥かに年長であった。彼が8歳のときにウイルはすでにウエスタン・リザーブとハーバード法律学校を終えて、クリーブランドで実務を始めていた。ハリーはコーネル大学に入学しようとしていたし、ネッドは15歳でコーネル大学に入る準備をしていた。
(註1:ハリーは後年有名な地質学者となり、長年ウエスタン・リザーブの教授をしていた)
ハーヴェーは彼らの「指導」をうけたし、小さくなった服を貰い受けてはいたが、なんといっても兄弟としての苦楽をともにしたのは2年年長のアレインであった。
日曜日にはクッシング家はオールド・ストーン教会の日曜学校と礼拝に参加した。家族専用の席にはまっすぐに姿勢を正したドクター・カークの次に座ったウイリアムから、母親のそばに座ったハーヴェーまで、年の順に並んだ。説教は長く静かに座っているのは大変であった。時たま親切な隣人パーソン氏がハーヴェーにキャンディを渡してくれることがあった。後になって、氏は「長老制度にペパーミントで味付けしたのじゃよ」と言いながら当時を思い出していた。
家までの2マイル半を歩いて帰るのはちょうど日曜午餐の食欲をかき立てた。午餐はいまや寡夫となっている祖父イラスタスと一緒にとることになっていた。午後には、誰かが、多くはイラスタスがオリバー・ウエンデル・ホームズの 『朝食卓の独裁者』 や当時の流行作家の作品を朗読した。一方、アリス、ハーヴェー、兄弟、おそらくは2〜3の従兄弟たちも床に寝そべったり、窓の前にあるでこぼこの馬の毛製のソファに座ったりして、日曜日の歩行者を眺めたりした。
6歳のときにハーヴェーは家の筋向いにあるプライベート・スクールに通い始めた。そこに2年いた後、スターリング小学校に入学した。そこで無類の野球好きになった。また学校中で一番のつづり下手の評判をとった。昼食をとった彼を母親は馬車で送って、おさらいをしてやったが、ハーヴェーは覚えるのも早かったが、忘れるのも早かった。彼は生涯を通じて綴りを誤る語があった。ずっと後年になって、研究所の地位のことで、彼がエール大学の学長に手紙を書いたときに、依然としてprivilegeをprivalegeと、definiteをdefinateと書いていた。
(註2:このほか彼が綴り間違いをした単語は:exhonourate, fortolled, neybour, swoolen, hammard, Sweed, church, quire, characature, moskito, Turkish, bizarre, sacalirigious, militia, mediocherなどである。本書ではこれ以上彼の綴りについては触れないでおく)
ハーヴェーはハンサムな子供で、身体の動きは父親と祖父イラスタスに似て敏捷で優美であった。このしなやかさは彼にあらゆるスポーツを得意とさせ納屋の屋根裏部屋にしつらえた体育館の平行棒、回転棒、鉄輪をこなし、とんぼ返りも上手であった。
彼はスポーツが得意で機知に富んでいたので、1883年(明治16年)2月セントラル高等学校に入学したが、たちまちクラスメートの人気者となった。しかし、朗らかでいたずら好きな性格の反面、小さいときから非常に短気な性格を見せていて、家では「胡椒壜」というあだ名が付いていた。この傾向は時に彼を困難に陥れた。
あるときのこと、ハーヴェーはスターリング小学校の生徒たちと野球の練習中に長老派教会の牧師の息子ロバート・S.キャロルと喧嘩をしたことがあった。ロバートは2歳年下であったが、ハーヴェーよりも数ポンド目方が重かった。しかし二人ともある程度のジムのトレーニングを受けていた。ハーヴェーのほうが経験を積んでいるのに対して、ロバートのほうが腕力があった。
誰もほんとの喧嘩の原因は知らなかったが、ハーヴェーが短くロバートのことを「生意気なそばかす野郎」と呼んだのに対して、ロバートがハーヴェーを「へつらい野郎」と呼んでやり返した。これがどちらにも耐え難いこととなり、40分もの間、息も付かずに汗だくになって取っ組み合いをした理由だった。とうとう息切れした彼らは地面に座り込んでしまって、汗とほこりで、グロテスクになった顔をお互いに見て力なく苦笑いし、そして、野球の練習を続けた。
ハーヴェーのスポーツへの熱心さに平行して自然史への関心が育ちつつあった。彼はあらゆる種類の毛虫や蝶々や木の葉を集めていたが、それらの同定に父親の大きな助力を見出した。しかしながら、彼は友人の誰かにもらった茶色と白のスパニエル・プッピーだけは父親に見せなかった。というのは子供たちが前に飼っていた犬が死んでからは、ドクター・カークが頑として次の犬を飼うのを拒絶したからである。ハーヴェーは犬のジャックをうまく納屋に隠し、父親のいないときを見計らって、熱心に芸を仕込んだ。ジャックは物を運ぶことを覚え、タレント性があって、ピアノを弾いた。とうとう抜き差しならぬことが起こって、犬は見つけられてしまった。ハーヴェーは嵐を覚悟した。しかし、父親はただ、自分が見た限りジャックよりジルと呼んだ方がましではないかと言っただけであった。
その後はドクター・カークは犬のことは無視していたが、ある日ジャックが、博士が門前に乗り捨てた馬車の御者台に誇らしげに座っているのを見つけて以来、往診に伴って行くようになった。
高校2年生のある日、YMCAで鉄棒の練習をしているときにハーヴェーは誤って落ちて手首を折った。父親はすぐに連絡をうけた。ハーヴェーは大変不安になって父親の来るのを待った。それは骨の処置をされる恐れよりも、いったいどうしてこんなことになったのだと父親に問いただされることのほうが恐ろしかったのである。ところが驚いたことに父親はまったく一言も言わないで、非常に丁寧に骨を処置し副木を固定した。手術の経過全体に心を奪われていたので、痛みはかすかにしか感じなかった。そして日ならずして、傷の治る過程への関心が強くなり、一時的に腕が使えなくなる少年に起こりがちな短気さも幾分和らげられた。医師としての役割を果たしている父親を見たのも初めてであったし、医学に身近に接したのも初めてであった。
すばらしい青年ニュートンM.アンダーソンの影響を受けるようになったのもこの年であった。アンダーソンはセントラル高等学校で物理学を教えていたが、シンシナチ大学を卒業した後、ベル電話会社のために、ベルギーのリエジュに最初の電話交換局を設置したのだった。彼は生まれながらの教師であったので、少年たちをよく理解し、また少年たちが彼を尊敬する天性のタレント性を持っていた。
彼自身いろんな道具を使いこなし、また手先が器用なことは誰にでも貴重なことだからという考えで、マニュアル・トレーニング・コースを設立することにした。ペリー・ハーヴェーの家の裏庭の納屋を借りて、必要な道具を買い調え、12名の少年を集めて教え始めた。その中にハーヴェーと幾たりかの従兄弟がいた。
次の年になってクリーブランド市民の有志の好意により建築が出来るようになり、三階建ての校舎に設備を整えた。これが近代技術高等学校の前身クリーブランド・マニュアル・トレーニング学校として知られるようになった。数年後に彼がここで教えた課程がクリーブランドの公立学校の仕組みに取り入れられた。少年たちは大工仕事や、鍛冶仕事、製図、木工、機械工作を教えられたのである。
1884年(明治17年)の夏の間、アンダーソンはハーヴェーと彼の従兄弟たちエド・ウイリアムス、ペリーとアル・ハーヴェーを連れて湖水地方へ釣り旅行に出かけた。少年たちの一人が家に書き送った手紙に「うんとボートを漕いだので、うんと筋肉が強くなって、町の人を裏返しに出来るほどです。僕の掌はすっかり硬化して胼胝になり、レンガほどの硬さです」とあった。
翌年アンダーソンはスーセントマリーからそれほど遠くないヒューロン湖に島を買い、ハーヴェーや彼の従兄弟たちほかクリーヴランドの少年たちは、そこで幾年かの楽しい夏を過ごした。
最初に出かけたのは1885年(明治18年)7月3日の夜のことで、湖上蒸気船に乗ってクリーブランドを出発した。1週間後に彼らがマスケノザと名づけた島に到着した。マスケノザとはインディアン語で槍を意味し島の形が幾分それに似ていた。島は美しく位置し一端は開けた湖水に面し、他端は深い湾に面しており、どんな荒れた日でも湖水は静かであった。ニュートン・アンダーソンは不慣れな土地を不便がるよりも、何も無い方が好きでこの年と続く数年の夏の間に、針もみの木を伐採し、それで小屋を作り、島中を探査して島の地図を作り上げ、鳥獣を狩猟し、魚類を捕らえて食料庫に供給した。
1887年(明治20年)6月24日、ハーヴェーは級長として高等学校を卒業した。母親の助けでラテン語に良い点を取り、数学も出来た。ギリシャ語と英国史とは、あまりよくなかったが平均89.34点で、83人中11番であった。卒業式の時にはあまり活躍しなかったが、それでもクラス劇の主役を演じるとともに、クラスメートの一人とトンボ返りをやって見せた。
卒業の年の夏は、彼の最後のマスケノザの夏休みとなった。冬の間に、アンダーソンは42フィートの長さのスクーナー型ヨットを建造していた。少年たちのうち8人がこのスージー号に乗ってキャンプ場に向かった。ハーヴェーは島が年々美しくなっていると家に書き送っている。この夏も仲間と変わるところはなかったが、彼の自然史の知識は他を断然引き離していた。彼は父親に「ハーヴェー、これは何だ?」と少年たちが聞いてばっかりいると手放しで誇らしげに報告している。
少年たちは三人一組で炊事当番をすることになっていた。ハーヴェーは自分の当番の日のメニューは、乾燥肉のシチュー、コーン・パチー、ライス・コロッケ、ベイクド・ポテト、コーン・ブレッドを、いつも用意してある固いパンなどのほかに作ったと報告している。
しばしば、運がいいときには、鴨やヤマシギの類を食べられることもあった。それも12枚から15枚のパンケーキにハムやベーコン添えの朝食を済ませた後で。
1887年(明治20年)の夏には少年たちの大部分は17歳から18歳に達し、秋には大学に進むばかりであった。ハーヴェーと「トット」とはエール大学の入学試験に合格していた。そして、マスケノザの幸せな日々も幕を引こうとしていた。それから7年後、医学部2年生のとき、ハーヴェーはシカゴから来ている医局員のコッブという名の一人が「マスケノザ人の僕たちよりも隈なく湖水地方を旅行しています。彼はクリーブランドからスイジーという名の小さなヨットで出航するときに、アンダーソンという名の先生に率いられた多数の少年たちに挨拶されたことがあるそうです。まったく世間は狭いものです」と言って喜んでいる。
こうして、マスケノザという名を聞くだけで「アンダーソン先生」の感化を受けたクリーブランドの少年たちの心には彼らの高等学校時代の思い出が生き生きと浮かんでくるのであった。何年も経ってから少年の一人が書いている。「先生はわれわれに独立ということについて沢山のことを教えてくださった、そして義務を夏休みの間にわれわれに負わせることによってそのことを教えてくださった。私たちは疑いもなく、この方の教えたことから、また、この方と一緒に生活したことから、人生に対してよりよく訓育を受け、またよりよく準備が出来ました」(つづく)
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