随筆・その他
私が幼い頃の食暦(おやつ)(承前)
*春が来て空気が暖かくなると草原に出て、「ツバナの穂(芯)」を抜いて白い穂を食べる。野原でひばりの声を聞きながら子供同士で食べた。綿みたいに柔らかくて甘い味がしたが、時には醤油をつけることもあった。幼い頃の懐かしい思い出である。
*月日貝(ヒロンゲ、丸くて広い貝)は、江口浜に沢山採れていた。手のひらぐらいの大きさで、赤い上側(月)と白い下側(日)が綺麗だったし、大きな貝柱が非常に美味しかった。貝の殻は竹に挟んで「しゃもじ」に使っていた。江口浜には堆く貝殻が積まれて幾つも並んでいて見事なものだった。広島の海岸にも牡蠣の殻が山積みされていたのを思い出す。
江口浜の背後には、中国の墨絵蓬莱山の崖際にしがみ付いて生えているような、松の崖が延々と連なって景観だったが、現在江口浜は埋め立てられて港になり貝も取り尽くされたのか、その姿は全く見られない。情緒たっぷりだった崖も道路拡張の為切り崩されて、その姿は全く見られなくなった。残念な話だ。
*鰯の「めざし」も鰓から口を通して干されている、また鮎等川魚の串刺しを見て可哀想な事をするものだ、あれが人間だったらと想像した。昔は船が沈む程の大漁だったが、現在は乱獲のせいか漁獲が減り貴重品になっている。
「イデフカ」(茹で鱶)の酢味噌も美味しい。今流行りのコラーゲンが多いそうだ。
「きびなご」は、今は一年中売られているが、昔は冬から春のもので刺身がサッパリとして非常においしかったが、きらす(豆腐の絞り滓)で煮込んだ「卯の花汁」も身体が温かくなって好きだった。
*同じ頃、「鰹のたたき」がよく出て美味しかったが、私には鰹の腹皮が一番脂が乗って意外に旨いと思った。然し、これは余り人には好かれなかったようだ。鰹節を造る過程で、鰹の煮汁を煎じ詰めて「鰹煎じ」として売られていたが、人により好き嫌いが多かった。私は味噌汁にいれるのが好きで病みつきになって居た。戦後燃料(焚き木)不足とかで店に売られなくなって居たが、最近鰹の塩辛(酒盗)と共にマーケットに見られるようだ。
*梅雨時になると「あくまき」をよく作った。仕事や勉学の為に東京・大阪方面に出ている兄弟・親族に送って喜ばれていた。数週間前から竈の下の灰を溜めて置き、もち米を竹の皮で包み、充分煮込んだものだ。義弘公の朝鮮戦役の時からという説と平安時代から保存食として重宝だったという説がある。「あくまき」は作るのに時間が掛かり、炊くのに夢中になって竈の煙が立っているのを、当時鹿児島の上空を飛び回っていたアメリカ軍の戦闘機に見付かり、すさまじい機銃掃射を受けた思い出がある。これも警防團(今の消防団)から煙を見せるなと充分注意されていたのをつい忘れていたせいだ、怪我人が出ずによかった。「あくまき」を見る度に思い出す。
*夏になると自転車の荷台に木製トタン張りの小さい冷蔵庫を積んで目印の旗を立てたアイスクリーム(アイスキャンデー)売りが、チリンチリンと鐘(鈴)を鳴らしながら旗を立てて、暑い日ざしのなかをやって来るものだった。当時は道路に舗装はないし、でこぼこで砂埃が舞っていたが保健所がよくも許したものだ。それともまだ保健所は無かったかな?
*自分の家の庭先にも西瓜がごろごろしていて、適当に採って屋敷の掘抜き井戸に縄で吊るして、冷えた頃に取り上げ皆で食べた。甘い汁が充分で冷たくて美味しい物だった。皮は漬物にもした。この頃西瓜の皮が薄くなって居るそうだ。
同じ頃、冬瓜(ツガ)が去年棄てた種から庭先の何処にでもぞくぞく生えていたがこれも美味しい物だ。癖の無い味で肉の旨みを引き立てて呉れる。特に豚骨料理に欠かせない。冬瓜もこの頃は金を出して買う時代になった。あの頃は冬瓜と南瓜は、何処の庭にも自由に生えていた。両方とも保存が利いて冬でも美味しく食べられた。
*糸瓜(へちま)は庭先に棚を作って朝顔や朝鮮朝顔などの花や蔓、そして日陰を楽しんだ。実は味噌汁の具にした。また、ヘチマをまるごと一週間ぐらい川の流れに漬けて繊維をとり垢すりに使った。家に働いて居た女中などはヘチマの茎を1mぐらいの高さで切って水分を取り「ヘチマコロン」として化粧水にしたり咳止めにも使った。
*瓢箪(ひょうたん)を上手く育てて1〜2mにして長さや太さ、形をいろいろに整え酒の容器や飾り物にもしてそれを自慢にする人達の団体も居る。
*にがごり(にがうり)は今では茘枝(れいし)と言ってさらに最近では「ゴーヤ」と言う。楊貴妃の美しさのもとだと言われていた。昔は随分苦(にが)くて子供の頃は大嫌いだったが、この頃は品種改良されて食べやすくなっている年齢の所為もあるのだろう。健康食品として豆腐と味噌炒め等にするが、私は今でも特に食べようとは思わない。
*夏は眼にも涼しい冷やしソーメンが人気だった。現在流行のソーメン流しなどはなく、笊に入れて深い井戸で充分冷やして食べたが、現在の冷蔵庫よりはるかに情緒があってよかった。
*ところてん(心太[ところてん])は、特製の突き出し枠から突き出して、透明で爽やかな夏の食用として重宝していた。成績が悪いが仕方なく突き出して卒業させるのを「ところてん」と言って居たものだ。心太を凍らせて寒天にしたものをゼリー菓子、羊羹、蜜豆や細菌培養にも使う。島津藩は甑島からテングサを大量に採取して寒天を製造し外国に密輸していた。
*秋になると山芋が育つ。紫原は全体が深い雑木林で、現在の住宅街などとても考えられなかった頃だ。あそこは山芋が多く特有の蔓と黄色い葉、そして葉の付け根にはムカゴをよく見掛けた。このムカゴに塩を振ってご飯で炊くと凄く美味いものだ。割烹、日本料理でよく出る。
ただ山芋の根を掘った後は、特別な長い鍬で長さ1〜2mもある山芋を折れないように深く掘るが、その穴に足を突っ込んで怪我する事があった。
*ケセン(肉桂)の皮を一銭店屋で売っていた。かじるとあの独特な辛さと香りが好きだ。漢方薬に使っていた。
以上思い出すままに幼い頃の食歴の一部を書いて来たが、やがて80年の昔、自分の庭先であらゆる食品が作られた頃を今思うと感慨無量だ。現在の人達の便利合理主義が可哀想になる。

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