新春随筆
五 回 目 の 戌 年 を 迎 え て


東区・紫南支部
(吉村眼科) 吉村 睦雄
(S21. 6. 10生)

 平成18年に年男を迎えるにあたり、市医報に原稿を依頼された。12年前にも原稿依頼に応じて書いたように思う。しかし、その時分と今とでは気分が大分違う。60年で干支は一回りする。
 普通のサラリーマンなら定年の年である。40歳代の頃までは自分はまだ若いと感じていた。60歳代に突入する今は、世間からみれば中高年世代もいいところで、いわゆる人生の“黄昏時分”である。
 昔、若い頃60歳と聞くと随分「年」だと思った。恐らく今の若い人もそうであろう。この年になってみると、いつの間にかその年になったという気分だ。身体的には確かに若さなど、どこにも無いのだが、気分だけは実年齢より10歳位若いような気がする。
 私は50歳を迎える頃、60歳になるまでに達成したい4つの目標を心に誓った。即ち、@眼科開業医として恥ずかしくない水準の医者になりたい。Aゴルフも人並になりたい。Bコンピューターも人並に操りたい。C英会話を困らない程度までもってゆきたい。しかし、現在までそのいずれをも成就する見通しが立っていない。あくまでも予定は未定である。
 さて、ここから駆け足で自分史を振り返ることにする。私が生まれた昭和21年は敗戦冷めやらぬ頃である。生まれて長く経たないうちに“はしか”にかかり、それをこじらせ肺炎を合併した。当時は抗生物質など全くない時代で、40度位の高熱が1週間ほど続いた。脱水症状のせいか骨皮筋ヱ門状態になり医者からも見放され、葬式の準備をしている時に息を吹き返し、生き返ったと聞かされた。それでも無事、普通に小学校に入学できた。昭和28年の小学校入学の時分は、田舎では靴を履いていない児童もみられた。
 小学5年生の頃、現在の天皇陛下が皇太子の時、華やかな結婚式がテレビに映し出されたが、その頃より世の中は「もはや戦後ではない」といわれるようになった。そして時代は少しずつ高度成長へと歩み始めた。その絶頂期が1970年の大阪万博であったように思う。
 私が卒業した昭和46年の時分、医学部卒業者数は今の半分を若干上回っている程度であった。この頃を前後して新設医大ラッシュが起きた。大学医局に入局した昭和47年頃はまだ世間では高度成長期が続いていた。そして昭和49年の第1次石油ショックが生じた頃より成長にかげりが見えだした。それでも我々の医療界では繁栄が続いていた。ところが、私が開業した昭和57年頃より政府の医療費を抑制する動きが始まった。それから24年の歳月が流れたが、医療費引き締めの動きは首尾一貫止まず、益々その度を加速する傾向にある。
 ともあれ、ここまでまがりなりにも大過なく開業医生活を送れたことを天に感謝し、残された人生を少しでも患者さんの役に立てればと願っている。

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