新春随筆
戌 年 に 因 ん で


中央区・甲東支部
(福島内科医院) 福島 和敬
(S9. 2. 19生)

 私は、昭和9年2月19日に台湾で生まれた。戌年との事である。太平洋戦争が昭和16年12月に始まり、終戦の年は台湾で迎えた。昭和20年8月15日の事である。9月になると中国より、台中の新富小学校に校長先生が来られて、中国語の歌や言葉等を教えて頂いたが、覚えたのは青天白日旗の国歌と旗行列であった。
 昭和21年は戌年であり、台湾引揚げの年であった。4月、基隆の港をリュックサックを背負い、両手に風呂敷一杯つつんだ荷物を持ち、列を作って、牛馬を輸送するリバティという名の貨物船で、広島県の大竹という港に入港した事を覚えている。船内の食事は味噌汁とタクワンだけであった。脂肪分の少ない食事の為、子供達の額がカサカサになり、皮ふの表面が脱落して、白い粉をふいていたのを記憶している。
 鹿児島に着いてびっくりしたのは、空襲による焼野が原で、食糧の無い事であった。引揚者の所持金は1人千円に限られていた。芋、こうりゃん、とうもろこし等が主食で、配給によるコンビーフは最高のおかずであった。芋にいたっては、種芋迄食卓に出て来る有様で、現在でも芋は食べたくない。学校の方は中学校の試験も終っていたので、女子附属の高等科に入学する事となった。校舎は図書館の前の教育会館で、窓にはガラスが入っていない寒々とした校舎であった。
 昭和33年、再び戌年はやって来た。当時医学部の学生であったので、旅行が好きな私は、夏休みになると、北海道に一人で旅をした思い出がある。札幌の駅に降りた時、気温は25℃で冷房の中に入ったような気持ちがした事を記憶している。その夜の生ビールと羊の焼肉の美味しかった事は、忘れられぬ思い出である。
 昭和48年、再び戌年となった。この年石油危機でチリ紙騒動があり、田舎に迄便所紙を買いに走った記憶が鮮明に残っている。又この年は、外国より輸入されていた良い品が無くなって来て、専門の家具屋さんも、高価な家具を投げ売りした記憶がある。私もオランダ製の家具で、丸い形をした品物を購入し、現在も大切に使用している。外国の家具は、日本の家具と異なり、孫の代迄持つと言われているが、その通り頑丈なものである。
 平成6年は60歳となり戌年であった。赤いちゃんちゃんこを着せられ、写真をとったものである。自分としては、余り楽しい思い出ではない。この年、高校時代の友達は停年となり、自由人となったと喜んで書いて来る人はいたが、濡れ落葉となった人も多い。台湾時代の友人で、教員をしていた友人が遊びに来たが、頭がぼんやりしていて、あんなにふけこむものかと驚いたものである。
 平成18年は戌年である。どうやら無事に、この年迄仕事が続けられた事を、神に感謝せねばならない年となって来た。最近よく80代の患者さんに色々と70歳代の事を聞く事にしている。海外旅行は何歳迄行かれましたか。大抵「75歳位迄はどうにか行けましたよ」との答えが返って来る。「どうもツアーで、若い人と一緒について行くのがきつくてね。もう行きたくありません」との答えが返って来る。確かにそんなものであろうと推察される。観光地でおいてきぼりをくう程残念な事はない。高齢になったら、案内人をつけて、自由きままに旅行する方が良い事だと考えた。
 次に車の運転については、どうだろうかと尋ねると、それは色々で最高93歳。目は見えるが耳は駄目という人が居たので、こっちの方はまだ大丈夫のようである。まだ福岡迄だったら、そんなにくたびれる事なく、日帰りで帰って来れるからだ。ニュースを見ると、高齢者のブレーキとアクセルの踏み間違いで、事故が起っているので、運転には注意せねばならぬであろう。この次は平成30年が戌年であるが、そこ迄このような駄文を書けるかどうか判らないと思いつつ、筆を置く事にした。

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