新春随筆
散策2題−カルガモと乃木静子像−
大体毎早朝、自分の足か自転車を使って市内を散策している。長い間鹿児島を留守にしていたせいかもしれないが、与次郎ケ浜からの桜島は、何百回見ても飽きないし、季節ごとの色彩の変化にいつも新鮮さを感じてしまう。甲突川沿いも絶好の散歩ルートである。昨春などは、海に近い下流にカルガモが4、5羽のヒナを連れてユウユウと泳いでいるのを発見。あまりに可愛いので急いでカメラ取りに自宅に帰り、レンズを向けると反対側の岸に行ってしまい、なかなかシャッターチャンスをくれない。小走りに近くの橋を渡り、向こう岸からカメラを向けると、また、ユウユウと反対側に行ってしまった。かなり離れているので絶対カメラは見えないはずなのに、まるで、察知したかのような行動をとるのである。とうとうあきらめたものだった。「あの写真が撮れていたら、引き伸ばして自宅に飾ったのになぁ」と今でも口惜しい。散歩中の人々に聞くと、あのカルガモは、近くの橋の下でヒナを孵したのだという。4、5人に聞いてみたが、皆、初めてみる風景だと答えた。その分、水がきれいになったせいかな、と良い方に解釈している。
加治屋町の辺りは、西郷隆盛や大久保利通の生誕の地など歴史ゾーンを歩く思いがする。あちこちに先人たちの銅像や記念碑も建っており、郷土を誇らしく思うひと時を提供してくれる。あるときふと気づいた。武之橋に近い一角に上に何もないコンクリートの台座があった。どうしてだろう、と近づくと、大正8年に建てられ、「乃木将軍夫人湯地氏誕生之地」(写真1)と刻んである。我々の世代でさえ忘れ去られてしまった乃木静子の銅像があったのだ。だが、何らかの理由で銅像部分が撤去されたのだろう。乃木静子は、明治天皇崩御の際,殉死を決意した夫の陸軍大将の乃木希典に従い、自刃した女性である。彼女は、薩摩藩の御典医湯地定之の四女として生まれ、一家の上京とともに東京に移り、麹町の女学校を経て長州出身の乃木中佐(当時)と結婚。女学校時代から「湯地の娘が男なりせば」と賞賛されるほどの才女だった。日露戦争で愛息二人を失うが、取り乱さず、毅然としていたなどのエピソードや勤勉、質素な暮らしぶりから、戦前の女子教育の目指す理想像とされていた。傍らの鹿児島市のたて看板に彼女の正座姿の写真(写真2)がある。コンクリートの台座の上に、載っていた銅像を写したものと思われる。その表情は、硬く厳しい。現代社会で一般にみる華やいだふくよかな美しい女性のイメージとは、かけ離れたものだ。しかし、近代国家をつくる過程で日本人が一時的にも理想像と感じた歴史的な女性もまた、甲突川沿いで生まれたのだと想うとある種の感慨が強烈に沸いてくる。
写真1
ところで、この銅像はどこへ行ったのだろうか。随筆を書くに当たって調べた所、昭和18年に二宮金次郎の銅像などとともに太平洋戦争の弾丸になるために供出された、と分った。それまでは、静子の命日には、教師に引率されて参拝する女生徒たちの行列が続いた、という。息子を失い、夫に従い自刃し、その銅像もなくなった女性にどう声をかけるべきか。傍らの看板には「身を殺して仁をなす−将軍の妻として、軍人の母として−」とある。まさに「身を殺して、台座のみ」というのも歴史の現実である。このままそっとしておくべきかもしれない。
カルガモでは環境に、コンクリートの台座では歴史上の女性にそれぞれ思いをはせるーー。こう書くと散策もやや哲学的に響くが、実際は、「あっ、この道はこことこうつながっているのか」、「ここにこんなお店があったのか」、「うん、この坂は、自転車に乗ったまま登り切るぞ!」と他愛のない自問自答の繰返しを続けている。実のところウォーキングより自転車がだんだん気に入っている。行動範囲がぐんと広がるからだ。よし、今年は、自転車で市内の名所旧跡をあちこち探訪するぞ!意欲だけは満々だ。何よりも健康にいいし、地理も覚える。それに我々鹿児島の地上波テレビ局は12月1日からデジタル放送を開始する。デジタル開局に向けて必死の取り組を続けなければならない。まず体力づくりだ、といささかから回り気味ー。いや、仕事を離れて動き回ることで新幹線に象徴される鹿児島の変化を肌で感じ取れば、体力ばかりでなく頭脳も刺激し、ソフトづくりにもどこかで役に立つ、と自分に言い聞かせている。三日坊主に終らないための自分なりの理屈付けである。

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