新春随筆
私 が 幼 い 頃 の お や つ

中央区・中央支部
(鮫島病院) 鮫島  潤


 私共が幼い頃、大正が昭和に変る頃だった。昔ながらの仕切たりがやかましく躾られていたが、今から考えると物は無くても別に不自由とも思わず、あるもので済ますという時代だった。
*冬の寒い晩に勉強の後の夜食に「そばんねいぼ」が出た。蕎麦粉を熱湯で練って作り非常に温まって美味しかった。湯の量を増やして液状にした物が蕎麦ん湯・蕎麦粥と言った。
*同じく片栗粉を熱い湯で捏ねた物に白砂糖か黒砂糖を足したものも良いオヤッに為ったし、風邪を引いたり腹下しをして食欲減退のときに良いエネルギー補給になった。これが欲しい時はわざと熱が出たように真似したりして居た。
*寒い夜には甘酒が良かった。麹を買ってきて濃くまたは薄く各人の好みに合わせて熱い湯に溶いでフーフー言いながら呑んだ。暖房など無くてせいぜい火鉢だけの時代でとても寒い夜に身体を温めるのに無くてはならないものだった。時には生姜を少量刻んで入れたように記憶して居る。夜泣きうどんの屋台では、蕎麦とともに甘酒も出ていた。年齢を老った今でも昔が懐かしく時には自分で麹を買いに行くが近年何処の店にも無くなった。
*夜の食事に大根、人参のみじん切りを酢醤油で煮込んだ鰯の鍋汁が出た。舌が焼けるほど熱かったが其れでも非常に体が温まったので今でもあの味を思い出す。とても寒い夜で日蓮宗の寒行の一行5〜6人が乾いた寒気を引き裂くような団扇太鼓のトーントントン,トーントントンという特有の音は、宗教心の無い子供心に何か無気味で南無妙法蓮華経の声が通り過ぎるのを息を潜めて待っているものだった。
 同じ頃、「火の用心」カチ、カチという甲高い拍子木の音も今は聞かれないが80年前の記憶は忘れられない。
*昔は私の家は割合広く、屋敷のなかに米、麦、お茶、桑畑迄あって味噌・醤油等自家で作っていた。味噌・醤油を作るときは何日か前からいろいろ準備して其の日は家中の者が朝まだ暗いうちに起きて親族中の大勢の加勢で一年分の味噌や醤油を作った。共同作業が面白かった。
*正月に餅をつくとき鏡餅の他に黒砂糖を撞き込んだり蓬(よもぎ)や紅(べに)を撞きこんだり、唐芋を撞き込んだりして色の違う餅を諸蓋(もろぶた)に並べて綺麗なものだった。最後にイモンネイボ(唐芋餅)として白砂糖、黒砂糖、黄な粉をまぶして食べた。
*餅も丸、四角、菱形に切ったりして柔らかいうちに食べたり、薄く切って干してカラカラに煎餅みたいに干して食べたりしたが、冬作ったものが結構夏まで保存されていた。現在みたいに菓子や甘味料が無い時代に保存食、オヤツとしても非常に役立った。
*五月節句の頃、子供同士で武岡に遊びに行き「かからん葉」を集めて来れば祖母たちが蓬(よもぎ)または小豆で作った団子を挟んで食べさせたが美味しいものだった。あの急な崖を小学校にも行かない子供達でよく登って行ったものだ。ただ頂上についたとき今の長島美術館のあたりから鹿児島の街(当時はまだ田圃に囲まれていた)と桜島を眺めた時は子供心に雄大だなと思うものだった。山から帰ると曾祖母が「カッタモンガクッデ、アッノガンド」(変った者が来るから危ないよ)と叱るものだった。その頃から子供を襲う変質者がいたものだ。
 「かからん葉」はサルトリイバラの葉のことでカカラン(カカラナイ、サワラナイの意がある)。茎にトゲがあり猿も引っ掛かるそうだ。葉はハート型で何とも言えぬスパイシーな香りが沁みて上品な甘さがしたものだ。そして葉にはハーブという感覚があり殺菌作用もあると聞いた。
*曾祖母に連れられて武の広い田圃に出て畦道に生えた蓬(よもぎ)を竹で編んだ小さな籠に一杯採って来て蓬団子を作って貰った。現在の薬師、西田、田上に渉る広いひろい田圃でまばらに農家が点在し、その間を川が流れていて「メダカ」や鮒が泳ぎ、蛙が飛び込んだり蝶々、トンボが舞っていたが、あの豊かな自然は何処に行っただろうか?のどかな田圃風景だった。
*私達が幼い頃は「ふくれ菓子」「煎粉餅」「木目羹」「高麗餅」などが歴史もあり上品な和菓子として貴重なものだった。今の上品な和菓子店に澄まして並んでいるのをみると昔を思い出す。
*新照院と草牟田の真中の国道筋に丁度馬のペニスを思わせる形と大きさをした「うまんまら」(馬のマラ)を売る店があった。小豆を練った餅菓子だったが明治天皇に献上した時「これは美味しい、何という名前か?」と御下問があった。まさか「馬のマラ」と言うわけに行かず「春駒」と返事したという経緯がある。草牟田に昔から専門に売る店があったが今は見当たらない。そして形を変えて市内どこの和菓子店でも売るようになっている。
*近代的な菓子がなかった時代「しんこだご」が非常に人気のある菓子だった。これも日吉町吉利の深古院に由来する団子だそうだ。ある飢饉の年、救難食として落ち穂を拾って粉を挽き、餅にして醤油を付けて焼きその香ばしさで幾らでも食べられたと言う。
*伊集院饅頭:丸に十の字のマークが特徴。義弘公の関ケ原合戦を偲ぶ妙円寺詣りの際、若者の鎧兜の金具の音がチャリン、チャリント鳴っていた。昭和初期になると鎧が革となり音は聞かれなくなった。徳重神社では剣道大会が盛んだったのを思い出す。そのときのもてなしとして伊集院饅頭が供応されたものだ。
*加治木饅頭:400年前義弘公の加治木移転の際工事のお茶受けに作られたという。甘酒を使ったほんのりとした味が受けていた。加治木を通る時は必ず美坂屋で買うものだった。
 以上私の思い出をオヤツを中心として綴ったが、夏から秋は次の機会に譲ろうと思う。

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