新春随筆
題 知 ら ず
つい最近、ふと点けたテレビで左利き右利きの話をしていた。有名なイチロー選手が、内野ゴロでもセーフが多いのは、「左打者はスイングのフィニッシュそのままがダッシュの体勢だから一瞬脚が早いんだ」とか、「左利きは少数派だの」とか何やら喋っているのをチラリ見た。左、右の詮索はさて置き、ここで思い出すのが半世紀以上も昔の体験。昭和19年、航士校の操縦課程へ進んだ筆者は、所謂赤トンボ操縦訓練開始を待つ若者の一人だった。この頃から、行住坐臥全てこれ、軍人パイロットとしての能力獲得へ集中した生活。ほんの一例を挙げる。食事ラッパが鳴る。一分一秒時間厳守、早飯早糞、咀嚼もそこそこで時間との闘い。突然、週番士官の大声「右腕に銃弾を受け使用不能、どうする?」右が駄目なら左手で食事続行!。こうした訓練が頻回に行われた。操縦訓練の第一歩が、場周離着陸。何時でも場内不時着可能な範囲の飛行場周囲を変形四角の経路で操縦の基本中の基本を学ぶ。車輪が大地を離れて再び着地するまでの空中約8分間が勝負、死を賭けて全身全霊を集中する時間である。殊に離陸事故は当時殆ど100%死を意味した。万一の死に恥を晒さぬよう毎朝着衣全て着替えて訓練に臨んだもの。同乗飛行から単独操縦まで筆者の場合、累計約13時間を要した (10月9日同乗開始、11月21日初回単独飛行)。かくて翌20年春、航士卒業、遠距離戦闘分科、常陸教導飛行師団付(水戸市郊外)から第2航空軍101飛行団第26教育飛行隊付となった同期生190人余と共に渡満、東北満州の3飛行場群で戦技訓練に明け暮れる身となる。鈴蘭の花咲き乱れる初夏を挟んで所謂、空中戦の稽古に没頭(そんなノンビリした情勢ではなかった筈だが)、一刻も早く南方第一線に馳せ参じる人的資源の予備軍一番手(後年聞いた話では、8月下旬特攻要員として知覧基地に展開予定だったとかは不確定情報)。南方戦線で負傷し我等の教官となった2期先輩里見大尉に、戦場の様子を質問すると、只「行って見れば判る、早よ行け」の一言。広漠たる原野の真っ只中で「早く早く」と掛け声のみが聞こえる。諸情報入り乱れ錯綜の中、戦況全く不明の儘。時に祖国は風前の灯だったらしい。やがて、破滅の原爆、ソ軍が進入してくる。天皇の一声、落涙と共に武装解除、戦い済んで日が暮れて…60年もの年月が流れ…
傘寿超の一人暮し。現在でも時折、左手食事の真似事を試す事があるが、不自由極まる日常に変わる。身辺整理しながら突然、迎える正念場に心の臓がコトリと止まって呉れる事を希求して止まぬ今日この頃。
ここで、40年程前、自宅でラジオ放送のための録音中「私の幸福は…」といいかけて心筋梗塞で亡くなった故佐藤春夫氏に故川端康成氏が捧げた弔詞を紹介しよう(司馬太郎他著『弔辞』集成 鎮魂の賦 P206〜207)。
『いまだ生を知らずいずくんぞ死を知らんや 生は全機現なるをいまだ確かめ得ざれば死は全機現なりとはさらに覚り得ず 幻人幻境に遊ぶのみ 然りといへども死生別あり幽明異なり 今ただ天外に顔を出す佐藤春夫大人千尺の雲を飛ぶ鶴の如き 詩人を失ひてすでに寒影動き夕陽昏き 私誄祠を献ぜんとして胸中の海水更に一滴の遺るなきが如し 紅日天心に到るを万人胆仰せしこの高氏私達の世界を去りたるや 水を掬すれば月手にあり花を弄すれば香衣に満ちたる詩人私達の世界に還らざるや 否私たちはこの高氏詩人と別れる能はず斎場は別れる所にあらず葬儀は別れる時にあらず 私たち少年の頃より詩人の業を讃歎し啓発せられたる者なほ多く生存せり
また詩人の美と志と憤りを継ぐ者明日も現れん されば佐藤大人の大死一番現前たるべし 奇なる哉この詩人の死や 悲愁のうちに千峰雨霽れて露光冷しきを感ず 心奥を貫きて開眼を促す 時は五月 詩人の古里にたちばなの花咲くならんか ほととぎす心あらば来鳴きとよもせ
昭和39年5月10日 日本ペンクラブ会長 川端 康成』

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