新春随筆
「山極勝三郎」 の誤植に反省の弁
70年余の人生を重ねてくると、この間には赤面を禁じえない経験が数多くある。特に、文字に残ったものは、訂正がきき難いので、予てから、「ものを書くことは恥をかくことで、自分が書いた論文は、後では絶対に読みたくない」などと公言してきたものである。
お気付きの方も多かったでしょうが、本市医報第44巻第8号掲載の拙著「日本ゆかりのドイツ医学史探訪の旅−山際勝三郎と秦佐八郎−」では、ワープロ使用の変換で陥りがちではあるが、『山極』を『山際』と誤植してしまった次第である。
山極勝三郎の人工癌発生の成功
既報では、小生のベルリン訪問に関連して細胞病理学の始祖とされるルドルフ・ウイルヒョウの記念碑の紹介を兼ねて、彼の弟子の山極勝三郎(1863−1930)が、ウイルヒョウの「癌発生刺激説」と、英国の外科医パーシバル・ポットによる煙突掃除人の職業性陰嚢がん発生報告にヒントを得て、1915年、助手の市川厚一(後の北海道帝国大学農学部比較病理学講座教授) とウサギの耳へタールを根気よく塗布させ、世界で初めて実験的に癌を発生させたことを紹介したものであった。
山極勝三郎について付言
年配の先生方はご存知でしょうが、誤植の反省までに、彼の略歴を紹介してみたい。
彼は現在の長野県上田市で誕生。その後、開業医の山極家の養子となり、1888年東京帝国大学医学部を首席で卒業。1891年ドイツに留学、ウイルヒョウ門下で3年間病理学を学んだ。1895年、東京帝国大学教授に就任して病理学第二講座を担当。癌研究のほかに、日本住血吸虫、動脈硬化症、ペスト、脚気など、一般病理解剖組織学領域でも多くの業績を上げた。
初の人工癌発生成功の快挙により世界的名声を得たが、ノーベル賞受賞は逃し、1966年10月20日の産経新聞には、「ノーベル賞を授与したかった“ヤマギワ、許してください”スウェーデンの老学者 故山極博士選考もれの真相語る」の見出しで、選考委員であったヘンシェン博士の選考漏れに関するコメントが掲載されている。
1907年に半田屋医籍商会が本邦初の癌研究の専門誌『癌』を創刊、山極が主筆を務めた。日本病理学会の初代会長。1919年市川と共に帝国学士院賞受賞。1923年人工癌の研究でドイツから世界的学者に贈られるソフィ・ノルドホフ・ユング賞を受賞。
この間、1899年肺結核に罹り一時再起不能とされたが、療養により無事に定年を迎え、68歳で急性肺炎のため死去した。
なお、山極・市川が成功した人工癌の『ウサギの耳』の標本は、山極・市川先生ゆかりの東京大学総合研究博物館と北海道大学総合博物館に保存されているという。また、彼の生誕地の上田城址公園には、発癌実験に成功した折に口ずさんだ句とされる『癌出来つ意気昂然と二歩三歩』の句を彫り込んだ胸像がある。
戌年の新春に当り、今年は少しでも赤面の機会を少なくしたいものと想うところである。

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